Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』

佐藤弓生さんの第一歌集を読んだ。これまでの経験上、歌集なら第一歌集、小説ならデビュー作が結局一番好き、という作家さんが多かったけれど、佐藤さんの場合、第一、第二、第三歌集と重ねるにつれて、表現の幅が広がり、詩的深度も増しているし、何よりも作者自身がどんどん自由を手にしていっているように感じる(特に文体などの点において)。とはいえもちろん、この『世界が海におおわれるまで』にも好きな短歌は数多くあり、また、佐藤さんには珍しく職場詠などもあって、色々と発見があった。

 

 

・青空に手足をひたす冬の午後ぼくらの石はわずかに育つ

 

「ぼくらの石」が、何だろうと思う。「意志」という言葉も思い浮かぶ。空に手足をひたしているときの、少しだけ自然に近づけたような感覚を独自の言い回しで表現している。

 

・おびただしい星におびえる子もやがておぼえるだろう目の閉じ方を

 

この世界が本当は目を閉じずにはいられないくらい眩しい光にあふれたものであるということを、思い出させてくれる。目の閉じ方を覚えてしまった大人たちは、時には意識して目を見開いていなければならないのかもしれない。

 

・うつくしい兄などいない栃の葉の垂れるあたりに兄などいない

 

「うつくしい兄」は萩尾望都ポーの一族』のエドガーあたりをイメージさせる。「栃の葉の垂れるあたり」と具体的な場所が示されるのが面白く、主体の想像する「うつくしい兄」の植物的な属性を表しているようでもある。

 

・野葡萄が喉につまったままのきみだから父にはならなくていい

 

野葡萄が何かのメタファーで、これが喉から取れることが一種の通過儀礼だということだろう。その後の<鬼ゆりの花粉こぼれたところからけむりたつ声 カストラートの>と合わせて、佐藤さんの両性具有への憧憬を詠んだ歌は、この辺の歌が端緒なのだろうか。

 

・牛乳瓶二本ならんでとうめいに牛乳瓶の神さまを待つ

 

飲み手(?)に牛乳を届けるという使命を果たした牛乳瓶は、澄んだ心で神さまの迎えが来るのを待っている。アニミズム的でもあり、日常の細部へと注がれる視点が光る。同時に、自らも人生の伴侶と、この牛乳瓶たちのようにシンプルに生をまっとうしたいという願いも込められているのだろう。

 

 

巻末の井辻朱美さんの解説がとても良かった。文章の最後の部分を引用。

「視点のゆらぎと、このただよいかたのゆくりなさ。それがこの作者のいちばんのふしぎさであり、作品世界のやさしさの根源にあるものではないだろか。」

 

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佐藤弓生さんの他の歌集の感想はこちらから。

佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』 - Ryo Sasagawa's Blog

佐藤弓生『薄い街』 - Ryo Sasagawa's Blog

 

世界が海におおわれるまで

世界が海におおわれるまで

 

『短歌人』2018年6月号の、好きな歌10首(会員欄)

異国では誰かがひとり涙する君がくしゃみをひとつするとき(鈴掛真)

 

鈍感になればなるほど浮いているような心地のカフェテリア内(小玉春歌)

 

見えているもののすくなさ 卓上の春雨炒めぎらぎらし過ぎ(相田奈緒

 

戸口にて夢見るやうに取り落とす。鍵に映つた朝の景色を(鈴木秋馬)

 

終わりなき更紗模様の世界樹よ君の描きしイグドラシルよ(笠原真由美)

 

照らされたさくらは汚い ガラケーで撮ったみたいで目がはなせない(浪江まき子)

 

いま言葉はつる植物のやわらかな曲線を描き私に触れる(千葉みずほ)

 

「自販機の人」と呼ばれる名前ではなくてなんだか気が楽でいい(宗岡哲也

 

時間が経つまで待っているので水戸黄門から大相撲まで早くして(佐々木紬)

 

いちどきり川の近くに出逢ひたる樹木がありて憧れやまず(富樫由美子)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

佐藤弓生『薄い街』

『眼鏡屋は夕ぐれのため』に引き続き(佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』 - Ryo Sasagawa's Blog)、『薄い街』を読みました。最近は現代詩と短歌の境界について考えていたりするのですが、佐藤弓生さんはちょうどその境界の領域にいる歌人の一人だろうということもあり、興味深く読みました。

 

 

・ひとりまたひとり幼い妖精を燃やす市あり夜と呼びたり ※市=いち

 

「ようせい」「よる」「よびたり」は、まず音ありきで、音から意味が運ばれてくるような感じがする。もっと言うと、歌全体のリズミカルな音の連なりこそが、妖精を燃やすという非現実的なイメージにある種の必然性のようなものをもたらし、一首の歌ととして成立させていると言えるのではないだろうか。佐藤さんの歌の大きな特徴である音への配慮は、『薄い街』でも顕著に見られる。

 

・春の日の不可知を問えばとうとうとピアノをあふれくる黒い水

 

このピアノはグランドピアノじゃないかと思う。僕の実家にもグランドピアノがあるけれど、小さい頃は謎めいた大きな黒い物体に、ほとんど気圧されていた。「不可知」は漢字の熟語だけれど、「ふかち」という音はどこか和語のような響きもあって(例えば皁莢=さいかち、とか)、美しい。「春の日の不可知を問えば」は、「とうとうと」を導く序詞のようでもある(「とえば」「とうとうと」)。

 

 ・石の汗ほのかに匂う参道をゆけばわたしはむかし石の子

 

『薄い街』を読む前から知っていた歌で、おそらく有名な歌なのだろう。参道を歩くときは、厳かな気持ちになり、一瞬気が引き締まる。そのいつもより鋭くなった五感で、石の汗のにおい(というか石のにおい?)を知覚する。その瞬間、主体と石との精神的距離は一気に接近し、きっと私の前世は石だったのだ、と思い至る。「わたしはむかし石の子」の意味的飛躍を支えるのはやはり、「わたし」「むかし」「いし」の、音による統御ではないだろうか。

 

 ・あとかたもなかった 草の寝台で草の男と寝てたみたいに

 

「草」という語の喚起するイメージ。ホイットマンの『草の葉』とか、福永武彦の『草の花』とか。男性/女性、生/死、現実/幻想など様々な境界を、作中主体はやすやすと越境する。

 

 ・からっぽのからだかかえて鳴りやまぬ蟬を礼拝堂と呼ぶべき

 

蝉が必死に鳴き続ける様子は、確かに懸命に何かに祈っているようにも思える。礼拝堂は、海外などの大きな教会になればなるほど、高い天井によって作られる大きな空洞が印象的だ。蝉の体の構造についての知識はないけれど、いずれにせよ、真夏、たくさんの礼拝堂から祈りの声が響き渡っている世界は、あまりにも幻想的で、あまりにも愛おしい。

 

その他にもたくさんの好きな歌。

 

身めぐりをかこむ記憶のみっしりと果肉みたいなあなたを愛す

眼の濡れた生きものきみは 更けてゆく夜のガラスを振りかえるとき

海へ海へとわたしを乗せてくだりゆく黒い自転車いいえ黒馬

紫外線濃き一日を街角に少女はなくしたいものだらけ

なにもかもやりなおせるさ新世紀アジアの花も花のいくさも

夏の朝なんにもあげるものがない、あなた、あたしの名前をあげる

その中がそこはかとなくこわかったマッチの気配なきマッチ箱

飛ぶ紙のように鳥たちわたしたちわすれつづけることが復讐

 

  

薄い街

薄い街

 

『うたつかい』30号から、好きな歌10首

今回からPDF版ができた『うたつかい』。スマホで読んだり、結局印刷して紙でも読んだりして、楽しみました。その中から、特に好きな歌を10首。

 

 

毒を持つ花の切手のうらがはを疑ひもせずきみは舐めたり(有村桔梗)

 

女子大に通っていたい女子大は森だからつくりおわってる森(井口可奈)

 

「One for all, All for one!」が口癖の先生いなくなったって富良野で(上篠かける)

 

揺るぎないものになりたい五十年連れ添った老夫婦になりたい(瀧音幸司)

 

シャーペンの芯になりたい全身できみの想いを見える化したい(西淳子)

 

感情を使ひ果たして眠るときわれに遺作のごときため息(濱松哲朗)

 

左手を百合の形にひろげつつおもねる春のわたしを捨てて(藤本玲未)

 

色彩で話せるならばいまはもう菫色、の、濃淡ばかり(穂崎円)

 

花をおもうゆえに花あり晩年をおもうときみなあざやかすぎて(杜崎アオ)

 

硝子張りの駅舎の外は羽根がふる微熱のきみのまぶたで溶けた(カニエ・ナハ)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

 

『うたつかい』については、こちらから。

http://utatsukai.com/

千原こはぎ『ちるとしふと』

歌集の装丁が良い!と思って、Amazonでポチりました。表紙だけでなく、歌集の中にも短歌にちなんだたくさんのイラストが描かれていて、素敵な歌集でした。以下、特に好きな歌の感想です。

 

・おかえりと言う人のない毎日にまたひとつ増えてしまうぺんぎん 

 

一人暮らしの寂しさを紛らわすために、ペンギンのグッズを次々買ってしまう。もしかしたら、ノートや手帳の隅にペンギンのイラストが増えていく、ということかも。まあそれはともかく、歌集のこの歌が載っているページにはペンギンのイラストが載っていてかわいい。このペンギンはちゃっかり(?)表紙にもいる。

 

・すべてから置き去りにされているような心地してたぶんありふれている

 

感情があふれ出すような場面でも、どこか客観的というか、冷静さを失わないのが千原さんの歌の魅力なような気がする。<すきすぎてきらいになるとかありますかそれはやっぱりすきなのですか>の歌とかもそういう視座から詠まれた歌だなと思う。

 

・オシャレ女子のヘアアレンジを描きながら寝起きのままだ髪も素肌も

 

イラストレーターさんの素顔ってこんな感じなのか、と思う。この歌以外にもイラストやデザインのお仕事を詠んだ短歌が色々あって、今まで見たことのなかった世界が垣間見えた。

 

・友人の個展のはがき アーティストではないことをまた嚙み締める

 

こういう少しネガティブな感情も素直に歌にできる人はすごいと思う。読者としては信頼して読み進められるし、きっと作者にとって短歌は人生においてなくてはならないものなのだろうな、と思った。

 

・冬深くやわらかに強いられているこの日常は選択の果て

 

「やわらかに強いられている」が、確かにそんな感じだなと思う。どれだけ自分では良かれと思った選択を重ねて、ある程度は望んだ日常を手に入れたとしても、全てが思い通りにいくことなんてないのだから。

 

ちるとしふと (新鋭短歌シリーズ39)

ちるとしふと (新鋭短歌シリーズ39)

 

ナイス害『フラッシュバックに勝つる』

私家版の歌集を購入したのは、宇野なずきさんの『最初からやり直してください』に続き、二冊目。twitterに流れてきたナイス害さんの短歌が面白くて、もっと読んでみたいと思い購入しました。跋文で雪舟えまさんが「すべて読み終えたあとにはナイス害ワールドで暖かくもてなされた余韻があるのでした」と書かれていて、まさにそういう読後感の一冊でした。以下、特に好きな歌の感想です。

 

 

・せんべいチョコせんべいチョコせんべいチョコと交互に食べる まだ午前中

 

これを毎日やったら健康面からもさすがにまずいけれど、このくらいの自由な選択が常に可能だということは心に留めておきたい。

 

・新品のチョークとチョークをぶつけると近近未来の夏のおとずれ

 

チョークとチョークをぶつけると「キン」と音がして、たぶん割れる。その音はまるで映画のカチンコの音のようで、夏のシーンがこれから始まる。

 

・柿チョコの旬は一月なんだよね 四季折々の甘味を愛す

 

この歌みたいに作者の心の豊かさが伝わってくる歌は、読んでいて楽しいし、自分でもこのお菓子の旬はいつだろうとか考えてみたりしたくなる。

 

・さようなら そーらーぱわーで手を振ってくれる雑貨のようなきみの手

 

「そーらーぱわーで手を振ってくれる雑貨」はおそらく実用性は全くなくて、それこそ恋人からのプレゼントとかお土産にもらったりするようなものだ。物としての価値がその機能にではなく存在そのものにあるという点において、「きみ」と「そーらーぱわーで手を振ってくれる雑貨」は共通している。切ない歌。

 

・幽霊の気分で橋の欄干に立てば今夜もキャラメルの風

 

現実から少し距離を置くことで、いつもより鋭敏になる五感。「キャラメルの風」は本当のキャラメルのにおいではなくて、キャラメルっぽい何か他の物のにおいがする風だろうか。「キャラメルの風」というメルヘンっぽい言葉に不思議なリアリティがあって、何だかワクワクする。

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

最近、瀬戸夏子さんの短歌が気になっている。瀬戸さんの短歌の一般的なイメージを一言で言うなら、「とにかくわからない短歌」なのではないだろうか。僕自身も第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』、第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』と読み進めたけれど、実際、収録されている短歌のそのほとんどの意味を理解することはできなかった。にも関わらず、好きな短歌は数多くあった。良いと思ったということは、そこには何らかの理由が必ず存在するはずだ。そう考えれば考えるほど、瀬戸さんの短歌がますます気になってしまう。

 

『かわいい海とかわいくない海 end.』に収録されている瀬戸さんの短歌を、とりあえず二つに分類してみる。

 

①一首が何らかの統一されたイメージを結んでいる歌

 

 

 花はさかりに血液をさかのぼる水増えてそのまま時はきみの味方だ

 絵にすればスイッチと言う死の前日のダンスと言えばわたしだと言う

 恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ

 未来の声が届く範囲からではだめきれいな心を与えすぎてた

 春に勇気を夏に栞を持ち込んでマリアはふたたびわたしを呼んだ

 

 

例えば、これらの歌は読んですんなり意味が通るというわけでは決してないにせよ、短歌を読む際にわれわれが普段用いているコードを使って読むことができる。三十一音を通して何らかの統一された一つの圧倒的なイメージがあり、色々な角度から歌の意味を解釈しようというアプローチが、少なくとも可能ではある(もちろん一般的な短歌と比較すると、相当難解な歌として、だけれど)。

 

この歌集を読んで自分が好きな歌を選べと言われたら、きっと大多数の人がこの①のグループの歌の中から選ぶのではないかと思う。しかし、この①のグループの短歌は歌集全体を通して見れば、一割程度にすぎない。

 

②一首が何らかの統一されたイメージを結ぶことを許されていない歌

 

 

 そっくりなディズニーランド操縦しマフラー編んだ声を椅子にし

 ムーミンの一勝一敗 誰何する乱も変をもとどろきのただひとすじの二重となった

 

 

これらの歌のように、歌を解釈しようとするわれわれのアプローチを軽く一蹴して、短歌自体が理解・解釈されることを積極的に拒否するような歌が、むしろ歌集の大部分を占めている。瀬戸さんは様々なテクニックを駆使して、われわれが短歌を読む際に無意識のうちに前提としている、「一首の中には一つの世界が広がっていて、それは何らかの理解・解釈に結実させることができる」という期待を打ち破ってゆく。

 

 

 利き手と名づけておいた葡萄の最高裁をにぎりつぶした、まだ間に合うから

 きっときみから花の香りがしてくるだろう新幹線を滅ぼすころに

 

 

最高裁」「新幹線」という単語がもしも別の単語だったらどうなるだろう。これら二首の歌は「最高裁」「新幹線」という単語が存在するがゆえに、一首として意味を把握することがほぼ不可能に近い状態になっていると思う(利き手と名づけておいた葡萄、も十分難しいけれど)。このあたりから、作者がかなり恣意的に短歌が一首として意味を持つことを回避しようとしているように感じる。

 

瀬戸さんは破調、意味の混乱を誘発させるような接続詞の使用、位相の異なる単語を組み込むことによる一首全体の意味の無効化などを行い、積極的に既存の短歌というジャンルの脱構築を行っている。その試みの意図は何なのだろう。歌集の最後に収録されている「メイキング・オブ・エンジェル」という文章から引用する。

 

「ラ・プチット・ビジューは発言の九割が的外れで、残りの一割が世界の真実の的の真ん中を撃ちぬく、そういうタイプの脳のつくりをしていた。(中略)私が愛していたのはどちらかというと世俗の靄がかかってはいるもののどこにもよるべのない九割の言葉のほうで、それをきいているとどこかとてもなつかしくけれどまだいったことのないあたらしい、けれどとても親しい場所へつれていってくれそうな錯覚に襲われることさえあった。」

 

この文章は瀬戸さんが何を指向して短歌を作っているのか、ということのヒントになると思う。先ほどの①のグループが世界の真実の一割の方で、②のグループが的外れな九割の方だと考えることもできるし、そもそも瀬戸さんの短歌は全て九割の方のグループに属するもので、①のグループの短歌はたまたま従来の短歌の読みのコードが捕捉できる範囲のものだったに過ぎないと考えることもできるだろう。

 

いずれにせよ、②のグループの短歌を「とにかくわからない短歌」とカテゴライズするだけに留まり、考えることを放棄するのはとてももったいないことだと思う。まだまだ瀬戸さんの作品世界の総体は未知で、もしかしたら、「メイキング・オブ・エンジェル」にミスリードされている可能性だってあるけれど、今後も瀬戸さんの作品や文章をフォローしながら考えていきたいと思う。

 

 

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僕自身もまだ瀬戸さんの作品で読めていないものがたくさんあるので、今すぐ、というわけではないのですが、瀬戸さんの短歌について語る会みたいなのができたら良いなと考えています。他の人(短歌を普段から読んでいない人も含めて)が、瀬戸さんの短歌を読んでどう感じるのか、ということにとても興味があるからです。題材としては市販されていて入手もしやすい、この『かわいい海とかわいくない海 end.』が良いのかなと思っています。

 

 

かわいい海とかわいくない海 end. (現代歌人シリーズ10)

かわいい海とかわいくない海 end. (現代歌人シリーズ10)