Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『短歌人』2018年5月号の、好きな歌10首(会員欄)

飲食は娯楽にあらずひとの子も なまごみしるがくろきすじひく(鈴木杏龍)

 

水を盛る器としての手の窪みふたつ合わせて顔洗いおり(たかだ牛道)

 

朝が来て帰ってしまうのがいやでワイシャツのボタンを取った 全部(古賀たかえ)

 

有限の私の中にまたひとつ新規作成してひらく湖(佐藤ゆうこ) ※湖=うみ

 

筋肉にあなたの心にじみ出てそれはどこにも記録されない(相田奈緒

 

永遠に正しく笑う母がいる 家族写真は日に焼けていく(空山徹平)

 

うちの柿盗んでいったおばさんがおばさんのまま終わる平成(北城椿貴)

 

蟻地獄のように吸い込まれる百貨店 信号変われば終わり(加藤真弓)

 

上書き保存で消した歌稿を思い浮かべるピアニストのポーズ(国東杏蜜)

 

湯たんぽの湯は冷めてなお水でなく新しい朝に温みを残す(高橋道子)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

<一首評>初谷むいさんの短歌より

エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ

/初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 

ちょっとした遊び心で、エスカレーターを「えすか」と略して呼ぶ。でもそれは二人だけにしか通じない特別な呼び方。長い「えすか」を下から見上げると、どこか遙か遠い場所のことを思ってしまう。「えすか」。まるで「永遠」を意味する外国語のような響きだ。私たちにはいつから、物に名前をつける力があったのだろう。どれだけ昼間一緒にいても、必ず一人一人別々に過ごす夜はあって。あなたの夜を二人で過ごすことはできないのだけれど、それなら、せめて、あなたの夜を思うよ。

 

という風に読んだ。以下、同じ歌集の中より。

 

・お湯のことさゆって呼べばおいしそう さゆ きみの中身を知りたいよ

・最近は「驟雨」を覚え本屋さんで汗かくことに「驟雨」を当てた

・なにになったらわたしはさみしくないんだろう柑橘系の広場の中で

・ぼくはきみの伝説になる 飛べるからそれをつばさと呼んで悪いか

 

「さゆ」の歌は、構造的にも「えすか」の歌にとても似ている。「名付ける/名前を呼ぶ」という行為は、初谷さんの中でとても重要なことなのだろう。新しい名前として与えられた言葉は、目の前の現実を超越し、羽ばたいてゆく。「えすか」のような造語や、「柑橘系の広場」といったオリジナルな言葉の組み合わせによる世界の再構築・再定義は、歌集の巻末で山田航さんが述べている「新鮮なリズム感覚」に加えて、初谷さんの短歌の大きな特徴の一つだと思う。

佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

佐藤弓生さんの歌集を読むのは、『モーヴ色のあめふる』以来、二冊目。色々ときっかけがあって(twitterでの佐藤さんのツイートに感銘を受けた、最近現代詩への興味が更に増した、等)、佐藤弓生ワールド再チャレンジ、といった感じです。付箋を貼りまくりながら読んだのですが、その中の何首かについて書きます。

 

 

・ふたしかな星座のようにきみがいる団地を抱いてうつくしい街

 

「うつくしい」という単語を短歌で使うのはなかなか難しいけれど、この歌の「うつくしい」はすごく自然。下の句の音のリズム感が、「うつくしい」という単語が持つある種の押しつけがましさを取り除いてくれているのだと思う。音への(時に過剰なまでの)配慮は、佐藤さんの短歌の大きな特徴。

 

 

・さくらばなほろほろほろぶ男たちスカートはいて駆けておいでよ

 

佐藤さんの短歌は、両性具有的な美を指向した歌が多いのも一つの特徴だと言える。スカートの色はさくら色なのだろう。

 

 

・感情の機械に生まれ黙黙ときみもわたしもゆきのまちゆく

 

全く異なる思考・性格であるはずの二人の人間が、お互いに「黙」という共通の感情を選択しているという状況での、きみもわたしも同じ機械だったんだ、という奇妙な連帯感。

 

 

・ひとところ模様のゆがみ見やるとき絨毯もまた遺伝子の船

 

ミクロな視点から一気に宇宙的な規模の話に飛躍する、ダイナミックさ。普段は意識していないけれど、絨毯に使われる羊などの毛一本一本にはもちろんDNAが含まれている。「船」という単語から、何となくノアの方舟も連想される。

 

 

・消防車救急車鳴きかわす夜の広さよ ひとつ氷を食めば

 

誰にも真似できないような歌だと思う。消防車や救急車が走り回っているのは自分の家の外の出来事であり、自分とはある意味関係の薄い、外部の世界の話だと主体は捉えている。そこに氷を食べることで、更にもう一段階遠い位相へと主体は移動するのである。その遠さのイメージは、氷を食べることによる体温の低下や氷の固さによってもたらされる。

 

 

・水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし

 

水に体を浸したときの身体感覚のあまりの素直さに、自分の中にこんなにも人間的、動物的な感覚が眠っていたのかと驚く。あまりの驚きに、本来は(もちろん)人間であるはずの主体が、思わず人間に似ていると感じてしまうという逆転が生じている。感じたことが論理や理性によって言語化される前の、「未言語化言語」とでもいうべきものを忠実にすくい取っている。

 

 

 「未言語化言語」にはきっと相当する専門的な用語があると思うので、また勉強しておきます。一番好きな歌は、<ふゆぞらふかく咬みあう枝のあらわにもぼくらはうつくしきコンポジション>でした。敢えて語るのは避けようと思いますが、音への配慮、宇宙的視座、両性具有的な美意識等の佐藤弓生ワールドの本質を備えた秀歌だと思います。

 

 

眼鏡屋は夕ぐれのため―佐藤弓生歌集 (21世紀歌人シリーズ)
 

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』

みずうみに出口入口、心臓はみえない目だからありがとう未来/瀬戸夏子

 

 

中学生の時、英語の授業で、好きな色を紙に英語で書いて、自分と好きな色が同じ人を探してペアになるというゲームがあった。僕は普通にwhiteと書いたのだけれど、whiteの人が全然見つからなくて、最後まで残ってしまった。結局40人いたクラスで好きな色が白だったのは、僕だけだった。普段同じテレビ番組の話をしたり、同じ先生の悪口を言い合ったりしていたはずなのに、あれ、何かおかしいなと思った。自己と他者との間の果てしない隔たりをはっきり意識したのは、ひょっとしたらこの時が初めてだったかもしれない。

 

という記憶を、瀬戸夏子さんの『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を読んで、なぜだかふと思い出した。瀬戸さんの短歌を論じるのはとても難しいと思う。丁寧な読みはもちろん、短歌に関する一定以上の前提知識も求められる。

 

 

「瀬戸夏子の作品からは、手ブレの映像のような印象を受ける。リフレインが多いせいだろうか。一首の中で、少しずつ意味や見え方を変えながら繰り返される単語が、残像を思わせる。」(服部真里子、『そのなかに心臓をつくって住みなさい』栞文、p.3)

「コラージュ、という言葉が一番近いような気がする。ひとりで作る「優美な屍骸」のようなものだ。」(平岡直子、同上、p.6)

 

また、この歌集に収録されている<心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで>という瀬戸さんの歌に関して、

 

「瀬戸さんの歌は、(中略)「心が複数ある」、あるいは、「心がない」ようにおもいます。」(三上春海、『誰にもわからない短歌入門』、p.20)

「矛盾する散文的感情どうしの「混声」と言うよりも、ひとつの韻文的な、論理や理性に回収される以前の、まだ名前を持たない叫びのようなものとしてこの一首はあるのだと思う。」(鈴木ちはね、同上、p.21)

 

 

これらの鋭い批評を読んでいくと、少しずつ瀬戸さんの作品世界が分かってくる。他者への意思伝達手段としての言語に変換される前の「言語」で、瀬戸さんの短歌は書かれているのだろう。コラージュ、多声的といったキーワードも、そういった作歌姿勢の産物だと考えると、理にかなうような気がする。

 

冒頭の話に戻ると、我々は日常生活では論理や理性の力を借りることで何とか他者と帳尻を合わせられてはいるが、本当は自己と他者の間には決定的な隔たりがある、ということをよく心に留めておかなければならないのだと思う。その事実を真正面から突きつけてくるこの歌集に、目の覚める思いがした。

 

以下、今まで他の媒体(アンソロジー等)で見たことがなかったものの中から、好きな歌を。

 

・きみが呼ぶどんな名前もすいかで仔犬で、ここは南極?、すごい匂いで

・アヒルから友人のほうへたくさんのわたしのミューズは苦しんで死ぬ

・海をまるごと吸いこむピアノ 食卓に並ぶ 海をまるごと吸いこむピアノ

・いうときにもとにもどしたひまわりが火のなかをわたり死のさくらん

・太陽を奪う太陽 % テントウムシ畑になってしまった貴方は

 

 

そのなかに心臓をつくって住みなさい

そのなかに心臓をつくって住みなさい

 

『短歌人』2018年4月号の、好きな歌10首(会員欄)

病院の待合おほかた診察を終へてわれのみわが犬待てり(伊地知順一)

 

今朝の雨ほそく光りて花に降る君も私を通り過ぎたり(高良俊礼)

 

にんげんがいない よ みちにめがね屋のナイロン製のはたのはためき(鈴木杏龍)

 

熱湯がシンクを鳴らし焼いてないのに焼きそばは完成される(鈴掛真)

 

枕のために布団を敷くのが面倒でリアクションだけでお届けしてます(加藤真弓)

 

幸せがうまくなってるホワイト退社からのさわやかコナミをきめて(山本まとも)

 

そのむかし川上弘美を貸してくれた先輩が窮地に立たされている(鑓水青子)

 

別れてもやさしいひとといる海辺黙れば波の音も消えそうで(空山徹平)

 

薄紙は雛人形を包みあり剥がすことなく過ぐる幾年(富樫由美子)

 

水を得た魚なるかな大量のチラシの海を子は泳ぎ出す(桃生苑子

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

水について

 先日、短歌関係の友人と話していて、「短歌によく登場させる言葉とかモチーフって何?」という話になった。僕が普段から短歌を作ることに対して、あまり能動的じゃない(紙やPCに向かって、さあ今から短歌を作るぞ、ということはほとんどない。残念ながら、そのやり方では作れない)ことと関係があるかはわからないけれど、今までそういうことは全然考えたことがなかった。

 これまでに作った短歌をざっと思い出してみたところ、「水」という単語がふと思い浮かんだ。帰宅して調べると、やはり、というか想像していた以上に「水」という単語の入った短歌が多くて、驚いた。

 

 もうすぐであなたにだってなれたのに 傘袋では水が私語する

 カテドラルのようなかなしみ(埋まらない)水は水だとしても、まだ水

 優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊

 

といった感じの歌だ。ちなみに、一種の自己模倣なのか、「水」が含まれる歌にはなぜか読点の入った歌が目立った。

 さて、どうして水の歌が多いのか。他の人の短歌を読んでいても「光」とか「風」といった自然に関係する語は多く登場するし、水が多いのも大体そういう傾向の現れだろう、と考えると容易に納得することはできる。けれど、それだけではない、水にこだわる自分なりの理由があるような気がするのだ。僕は、人間でも動物でも植物でも、命あるものに直に触れているとき、不思議といつも距離を感じる。近接していればしているほど、はるか遠くにあるもののように思えてしまう。それでも、大地に川が走り、空気中を水が巡り、僕の中に、そして、「あなた」の中に水が流れる、という事実は、僕が何か大きなものの一つのピースとして安住していても大丈夫だよ、という感覚をふつふつと与えてくれているように思う。

 何だか壮大な話になってしまったけれど、要は自分の短歌にどういう言葉が多く使われているかを振り返ってみると、色々と考えるきっかけになるのでオススメですよ、という話でした。

 

(※『短歌人』2017年9月号の三角點に掲載された文章を、一部修正しています。)

 

☆★☆★

 

という文章を以前書いたのだけれど、これを書いた頃(2017年6月末)は、ふわふわした気持ちで短歌をやっていたな、と今からしたら思う。今年の年明け以降、短歌の周りで色々なことがあって、とりあえず短歌を精一杯やってみよう、と思うようになった。精一杯やってみようと思って初めて、短歌が頑張れば頑張るほど結果が出るジャンルではないことの恐ろしさを知ることになった。自分の中では、何というか、人生や生活を丁寧に進めていくこと(それが良い短歌を詠むコツだ、みたいなことを誰かの文章で読んだ気がするけれど、どの文章だったか思い出せない)と、歌集を読んだり他の分野の芸術に触れたりすることの二つが上手く噛み合っている時に、自分でも納得できるような短歌ができやすい気がしている。なので、バランスを大事にしつつ、今年は色々挑戦していけたら、と思っている。

萩原慎一郎『滑走路』

原慎一郎さんの『滑走路』。年始に一回読んだのだけれど、先日、新聞記事(朝日新聞2018年2月19日夕刊10頁) に、この歌集が取り上げられているのを読んで、改めて読み直した。新聞記事には作者の死因が自死であることがはっきりと書かれており(歌集には急逝とだけ記されていた)、それを念頭に置いて読むと、一冊が長い長い遺書のようにも思えてきて、一回目に読んだ時とはまた違う角度で見えてきた歌もあった。

 

・パソコンの向こうにひとがいるんだとアイスクリーム食べて深呼吸

・牛丼屋頑張っているきみがいてきみの頑張り時給以上だ

 

ネットの掲示板やSNS等でのやり取りの最中に、ふと、画面にびっしりと表示された文字を入力したのは全て、自分と同じ生身の人間なんだと意識し直し、姿勢を正す。牛丼屋で店員さんが働く様子をつぶさに観察し、心の中でエールを送る。痛みを知っている人だからこそ、その眼差しは人一倍温かい。

 

・三時間前に座りし公園のベンチを濡らす雨が降りたり

・ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる

 

正規雇用への不安、恋愛、過去の癒えない心の傷といった色々な悩みを抱えつつも、萩原さんは決して下を向いてばかりではない。三時間もの間の物思いの末、雨が降り出す。その雨は三時間ベンチに座っていなかったら、決して浴びることのなかった雨で、どこかささやかな救いの雨のようでもある。秋の訪れと共に食べる牛丼も、非正規という待遇に不満を述べつつ、まるで牛丼が一服の清涼剤であるかのように描かれている。

 

・かっこいいところをきみにみせたくて雪道をゆく掲載誌手に

・文語崩しの口語短歌を作るべく日々研究をしているぼくだ

 

一冊の中に、これだけ自身の短歌との向き合い方や作歌姿勢について詠んだ歌が入っている歌集は、珍しいのではないだろうか。それだけ萩原さんの中で短歌が大きな割合を占めていて、そこに多大な情熱を注いでいたという証だ。それだけ短歌を愛していた萩原さんに、ずっとずっと短歌を続けてほしかったと思う。

 

・未来とは手に入れるもの 自転車と短歌とロックンロール愛して

・一人ではないのだ そんな気がしたら大丈夫だよ 弁当を食む

 

この前、近鉄に乗っていると、向かいに座っていた初老の男性が、本を片手にノートに何かを必死にメモしていた。どこかで見た表紙の本だと思ったら、この『滑走路』だった。先述の新聞記事にも、ご両親の「慎一郎の短歌からは、困難な状況の中でも小さな幸せをつかもうとしていたことが分かります。今の時代を懸命に生きる方たちにも届く言葉があるかもしれません」というコメントが掲載されていたけれど、この歌集が少しでも多くの人に届き、人生の支えとなれば、と願っている。

 

歌集 滑走路

歌集 滑走路