Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『短歌人』2019年1月号の、好きな歌10首(会員欄)

旅人の目をして生きてゐることをまぶかにかぶる帽子に隠す(冨樫由美子)

 

抒情とは震えのことに他ならず触れて良いものと悪いものとの(高良俊礼)

 

若い子に道を譲れと言われて泣いた長い氷河期の終わりに(国東杏蜜)

 

吉田君ときけば私は一番に牛のあの仔を思い浮かべる(髙橋小径)

 

放課後の横断歩道のバレリーナ青信号が本当に青い(北城椿貴)

 

読めといふ声にのまれて見渡せばいづれ読むべきもののゆふだち(鈴木秋馬)

 

小さめの声で子どもに注意する多分明日は夢を見られる(山川創)

 

カーテンを少し開けおく夜の窓夜の深さを測る猫あり(山中もとひ)

 

何故犯人は北へむかふか考へた結果わたしも北へむかふ(いなだ豆乃助)

 

かばんには防犯ブザーをぶら下げているのいまだに世界がこわい(古賀たかえ)

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

『MITASASA』第1号、相互評

歌集『もうちょっと生きる』の三田三郎さんと発行したネットプリント『MITASASA』第1号、思っていたよりもはるかに多くの方々にお読みいただき、大変嬉しく思っております。配信も今週日曜日までとなりましたので、三田さんとの相互評をこのブログで公開します。お読みいただけますと幸いです。

 

飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥(水の夢ばかり見る)/笹川諒

 

言葉はすぐに暴れるから、使わずに済むのだったらそれに越したことはないのだが、生活するためにはなかなかそうもいかない。だとすれば、飼い慣らす以外に選択肢はないではないか。それこそペットには向かない水鳥を飼い慣らすように。だが一方で、夢に見るのはいつも水鳥ではなく水だ。決して暴れることなく、なされるがままになっている水だ。言葉を飼い慣らした後も、ただ悠然と存在する水に表象される、言葉のない世界への逆説的な憧憬が、どうしても頭から離れないのだ。(蛇足を承知で付言すれば、隅々にまで気を配って作られたこの歌は、それ自体が言葉の飼い慣らし方をパフォーマティブに示すものとなっている。)<三田>

 

幸も不幸も他人に見せるものでなくツイッターには床の画像を/三田三郎

 

SNSには感情が過度にあふれている。時としてそれは、日常の対面でのコミュニケーションで表出される感情のレベルを、はるかに超える。床の画像をツイッターにあげるという主体の行為は、そういったSNSというツールの特性への反抗であり警鐘だととれる。しかし、この歌はそれだけの歌ではない。どこまでもフラットな床を見つめながら、色々な物事(たとえば幸福や不幸について)を静かに思索する主体にとって、その瞬間の世界を表象するものを一つ挙げろと言われたならば、眼前の平たく無機質な「床」でしかなく、決してそれ以上でもそれ以下でもないのだ。このツイートの画像は、ギャグなんかではなくて、どこまでも本気の「床」なのだと思う。<笹川>

ネプリ『MITASASA』第1号

歌集『もうちょっと生きる』の三田三郎さんと、ネットプリント『MITASASA』を作りました。

 

・三田三郎「ワンダフルライフ」10首

・笹川諒「天馬、あるいは」10首

 

を収録しています。お読みいただけますと幸いです。

 

セブンイレブン→予約番号G6HZ4J6Y(12月16日23時59分まで)

ローソン他コンビニ→ユーザー番号45QEQLPQQ7(12月17日11時まで)

A4、白黒、両面(短辺とじ・横とじ)、40円です。よろしくお願いします。

 

飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥(水の夢ばかり見る)

(「天馬、あるいは」『MITASASA』第1号より)

12月1日の日記

今日は朝から天王寺で用事。駅の改札を出る瞬間に、石松佳さんの「花野へと、そして花野へ逃げてゆくきみは回転扉の向こう」(『毎日歌壇』2017年8月21日掲載)という短歌がふいに頭をよぎった。好きだなと思っていながら、歌意が取りきれない部分もあった歌。「きみ」は「言葉」なのかもしれない、と思う。そして、石松さんの「絵の中の美濃吉」(『現代詩手帖』2018年10月号)という詩の冒頭、「たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院の鏡のように並んで走り抜ける」が思い出される。さっきの歌とイメージが重なる。それはともかく、短歌を始めてから、日常のふとした瞬間に、誰かの短歌がまるで自分の感情のように現れてくることがあって、不思議なことになってきたな、と思う。

 

用事が終わって、今日は映画の日らしいので、「ボヘミアン・ラプソディ」を観ようとする。まず、なんばに映画館がありそうな気がして、御堂筋線天王寺からなんばまで移動。駅に着いてからスマホで検索すると、満席だった。ああ、となったけれど、まあ仕方がないと気持ちを切り替えて帰路につく。事前にスマホでチケットを予約したり、空席のある映画館を探したりすれば良いのは分かってるけど、そういうのは平日の仕事の時や誰かと一緒に行動している時だけで、もうお腹いっぱい、という感じがする。法橋ひらくさんの「案の定バスは遅れてきたけれどちょうど良かった 乗りたくなった」(『それはとても速くて永い』)という歌があるけれど、こういう世界にたぶん、いつも憧れている。法橋さんと言えば数日前、ネプリ・トライアングルの感想を電話でいただき、とても嬉しかった。

 

帰りの近鉄の中では、千種創一さんの『砂丘律』を読んだ。その中の「あれは鯔。夕陽を浴びて預言者の歩幅で君は堤防をゆく」という歌がすごく良いなと思って、ツイートする。あんまり短歌単体のツイートをしても鬱陶しいと思われそうで、今日はこの歌のツイートにしておこうと思う。と、ここまで考えて、そもそもSNSにそんなに気を遣う必要があるのだろうか、とも思った。しばらくして、たまたま千種さんが歌集のことに関してツイートされていた。(おそらく)中東からのツイートをリアルタイムで読めるTwitterはやっぱり凄い、となる。SNSとの距離感は難しい。

 

帰宅してからは『月に吠えらんねえ』の8巻を読む。この漫画は平日に読むと翌日の仕事に影響が出るくらい精神的に揺さぶられるので、休日にだけ読むことに最近決めたのだった。主人公の「朔くん」(モデルは萩原朔太郎)がとても情緒不安定で、それに引っ張られてしまうのが原因。そうこうしていると、夕ご飯のタイミングを逃してしまい、閉店間際のスーパーに買い物に行く。半額のお弁当を買う。ついでに半額のお総菜も買って、大学生の時みたいだなと思った。僕が「大学生の時みたい」と思うとき、それは全て自分の中でプラスの意味を持っているな、ということを考えながら、次第に、感情について考え始める。そう言えば感情の差し出し方が美しい、みたいな歌、誰の歌だったっけ、と思って調べると、相田奈緒さんの「考えの差し出し方のうつくしいあなたの真似で五月を抜ける」(『短歌人』2018年8月号)だった。あ、感情じゃなかった。短歌人の中でも相田さんの歌は特に毎月楽しみにしている。

 

今日は短歌のことを殊更によく考えていた気がするけれど、きっとそれは明日が歌会だからだろう。だいぶ慣れてはきたとは思うけれど、歌会はいつでもちょっと緊張する。良い会になりますように。

『短歌人』2018年12月号の、好きな歌10首(会員欄)

秋という祈りの中に紫木蓮はぐれて一枝間の抜けた空(高良俊礼)

 

毎晩の眠りが日々の趣味となり安らぎゆくは死の練習か(いばひでき)

 

ひまわりじゃなかったダンデライオンのたてがみしわがれはててもう、秋(鈴木杏龍)

 

甥っ子が庭でバットを振っている何か言おうとしたけどやめた(宗岡哲也

 

虫になったり虎になったりするけれど夢の中では人間になる(千葉みずほ)

 

違うと泣く子の声がしてわかりたい皿のごはんをフォークで食べる(浪江まき子)

 

太陽の塔の中身が見られるという塔の中身で裏返る(国東杏蜜)

 

エジプトの駅という名のアルバムをポールが出した二〇一八(相田奈緒

 

きりのない懺悔のように引っ越しの荷を積みあげる さようなら街よ(葉山健介)

 

部屋ぬちにものを読み書きして過ぐすひと日ひと日で編む花鎖(冨樫由美子)

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

ネットプリントのお知らせ

水沼朔太郎さんのネットプリントに、「手に花を持てば喝采」10首が載っています。お読みいただけますと幸いです。以下詳細です。

 

ネプリ・トライアングル(シーズン3)第一回

セブンイレブン:83728225

ファミマやローソンなど:JMPN7A3TQ8

短歌連作十首×三人

笹川諒「手に花を持てば喝采

水沼朔太郎「おさきに」

多田なの「こんな日の体育」

A4一枚 20円 11/26まで

 

歯を磨くたびにあなたを発つ夜汽車その一両を思うのでした/笹川諒

『ネプリ・トライアングル(シーズン3)』第一回より

<一首評>服部真里子さんの短歌より

雪柳てのひらに散るさみしさよ十の位から一借りてくる(服部真里子)

 

 第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房、2018年)より。雪柳は、春に小さな白い花を咲かせるバラ科の植物である。また、下句の「十の位から一借りてくる」というのは、小学校で習った繰り下がりの引き算のことだろう。主体は、手のひらに落ちてきた雪柳の細い花びら一枚のビジュアルから、引き算の筆算で繰り下がりを行う際に十の位に書く「斜線」を想起する。それは、視覚的な類似に加え、花びらが手のひらに落ちてきたときのほんのかすかな「さみしさ」が、小学校時代を懐かしむときのそこはかとないさみしさと共鳴したからでもあるのだ。大人になった私たちは、面倒な計算は電卓等で全て済ませてしまうので、引き算の筆算という行為自体が学生時代の思い出とリンクするノスタルジックな感覚は、実感として何となく分かる。

 さみしいという感情にはグラデーションがあり、その程度を的確な言葉で言い表すのは難しい。では、主体がこの歌で感じているさみしさの程度がどれくらいであるか、それは、引き算の筆算で十の位から一借りることで数字が大きくなる(たとえば2が12になる)くらいの補填で埋め合わせができるくらいの、ごく些細なさみしさだった、という風に私はこの歌を読んだ。難解な歌なので、もちろん他にも解釈は色々あるだろう。

 雪柳の花びらから、繰り下がり計算の際の斜線をイメージし、さみしさの度合いを数の増加で補填できるくらいのささやかなものだと喩えるこの歌の詩的飛躍についていくのは、正直かなり困難であると言える。しかし、歌が破綻するかしないかのギリギリのラインで勝負していることによる緊迫感とスケールの大きさに惹かれ、歌集の中でも特に好きな歌だと思った。

 「十の位から一借りてくる」という表現は、ただ突飛でユニークなだけではない。

 千の言語、万の言語で話すのが銀杏並木のやり方だから

 人々の手はうつくしく四則算くり返し街に雪ふりやまず

 草むらを鳴らして風がこの夜に無数の0を書き足してゆく

数学的な比喩を、服部さんは『遠くの敵や硝子を』の他の歌でも使用している。これらの数学的な表現が選択された背景には、服部さんの作品群が世界のシステムの再構成・再定義を志向していること(ここではこれ以上触れないけれども)が、深く関係しているように思う。