Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

12月1日の日記

今日は朝から天王寺で用事。駅の改札を出る瞬間に、石松佳さんの「花野へと、そして花野へ逃げてゆくきみは回転扉の向こう」(『毎日歌壇』2017年8月21日掲載)という短歌がふいに頭をよぎった。好きだなと思っていながら、歌意が取りきれない部分もあった歌。「きみ」は「言葉」なのかもしれない、と思う。そして、石松さんの「絵の中の美濃吉」(『現代詩手帖』2018年10月号)という詩の冒頭、「たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院の鏡のように並んで走り抜ける」が思い出される。さっきの歌とイメージが重なる。それはともかく、短歌を始めてから、日常のふとした瞬間に、誰かの短歌がまるで自分の感情のように現れてくることがあって、不思議なことになってきたな、と思う。

 

用事が終わって、今日は映画の日らしいので、「ボヘミアン・ラプソディ」を観ようとする。まず、なんばに映画館がありそうな気がして、御堂筋線天王寺からなんばまで移動。駅に着いてからスマホで検索すると、満席だった。ああ、となったけれど、まあ仕方がないと気持ちを切り替えて帰路につく。事前にスマホでチケットを予約したり、空席のある映画館を探したりすれば良いのは分かってるけど、そういうのは平日の仕事の時や誰かと一緒に行動している時だけで、もうお腹いっぱい、という感じがする。法橋ひらくさんの「案の定バスは遅れてきたけれどちょうど良かった 乗りたくなった」(『それはとても速くて永い』)という歌があるけれど、こういう世界にたぶん、いつも憧れている。法橋さんと言えば数日前、ネプリ・トライアングルの感想を電話でいただき、とても嬉しかった。

 

帰りの近鉄の中では、千種創一さんの『砂丘律』を読んだ。その中の「あれは鯔。夕陽を浴びて預言者の歩幅で君は堤防をゆく」という歌がすごく良いなと思って、ツイートする。あんまり短歌単体のツイートをしても鬱陶しいと思われそうで、今日はこの歌のツイートにしておこうと思う。と、ここまで考えて、そもそもSNSにそんなに気を遣う必要があるのだろうか、とも思った。しばらくして、たまたま千種さんが歌集のことに関してツイートされていた。(おそらく)中東からのツイートをリアルタイムで読めるTwitterはやっぱり凄い、となる。SNSとの距離感は難しい。

 

帰宅してからは『月に吠えらんねえ』の8巻を読む。この漫画は平日に読むと翌日の仕事に影響が出るくらい精神的に揺さぶられるので、休日にだけ読むことに最近決めたのだった。主人公の「朔くん」(モデルは萩原朔太郎)がとても情緒不安定で、それに引っ張られてしまうのが原因。そうこうしていると、夕ご飯のタイミングを逃してしまい、閉店間際のスーパーに買い物に行く。半額のお弁当を買う。ついでに半額のお総菜も買って、大学生の時みたいだなと思った。僕が「大学生の時みたい」と思うとき、それは全て自分の中でプラスの意味を持っているな、ということを考えながら、次第に、感情について考え始める。そう言えば感情の差し出し方が美しい、みたいな歌、誰の歌だったっけ、と思って調べると、相田奈緒さんの「考えの差し出し方のうつくしいあなたの真似で五月を抜ける」(『短歌人』2018年8月号)だった。あ、感情じゃなかった。短歌人の中でも相田さんの歌は特に毎月楽しみにしている。

 

今日は短歌のことを殊更によく考えていた気がするけれど、きっとそれは明日が歌会だからだろう。だいぶ慣れてはきたとは思うけれど、歌会はいつでもちょっと緊張する。良い会になりますように。