Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

<一首評>服部真里子さんの短歌より

雪柳てのひらに散るさみしさよ十の位から一借りてくる(服部真里子)

 

 第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房、2018年)より。雪柳は、春に小さな白い花を咲かせるバラ科の植物である。また、下句の「十の位から一借りてくる」というのは、小学校で習った繰り下がりの引き算のことだろう。主体は、手のひらに落ちてきた雪柳の細い花びら一枚のビジュアルから、引き算の筆算で繰り下がりを行う際に十の位に書く「斜線」を想起する。それは、視覚的な類似に加え、花びらが手のひらに落ちてきたときのほんのかすかな「さみしさ」が、小学校時代を懐かしむときのそこはかとないさみしさと共鳴したからでもあるのだ。大人になった私たちは、面倒な計算は電卓等で全て済ませてしまうので、引き算の筆算という行為自体が学生時代の思い出とリンクするノスタルジックな感覚は、実感として何となく分かる。

 さみしいという感情にはグラデーションがあり、その程度を的確な言葉で言い表すのは難しい。では、主体がこの歌で感じているさみしさの程度がどれくらいであるか、それは、引き算の筆算で十の位から一借りることで数字が大きくなる(たとえば2が12になる)くらいの補填で埋め合わせができるくらいの、ごく些細なさみしさだった、という風に私はこの歌を読んだ。難解な歌なので、もちろん他にも解釈は色々あるだろう。

 雪柳の花びらから、繰り下がり計算の際の斜線をイメージし、さみしさの度合いを数の増加で補填できるくらいのささやかなものだと喩えるこの歌の詩的飛躍についていくのは、正直かなり困難であると言える。しかし、歌が破綻するかしないかのギリギリのラインで勝負していることによる緊迫感とスケールの大きさに惹かれ、歌集の中でも特に好きな歌だと思った。

 「十の位から一借りてくる」という表現は、ただ突飛でユニークなだけではない。

 千の言語、万の言語で話すのが銀杏並木のやり方だから

 人々の手はうつくしく四則算くり返し街に雪ふりやまず

 草むらを鳴らして風がこの夜に無数の0を書き足してゆく

数学的な比喩を、服部さんは『遠くの敵や硝子を』の他の歌でも使用している。これらの数学的な表現が選択された背景には、服部さんの作品群が世界のシステムの再構成・再定義を志向していること(ここではこれ以上触れないけれども)が、深く関係しているように思う。