Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

冨樫由美子『草の栞』

「短歌人」の先輩、冨樫由美子さんの第一歌集『草の栞』を読みました。(探していたのですがなかなか手に入らず、短歌の友人から貸していただきました。)

 

同じかたちの若草色の扉(どあ)ならぶ白い廊下のゆめをまたみる

 

夢の情景の説明が、すでに絵画になっている。主体は何か迷っていることがあるのだろうけれど、若草色という色からほのかな期待や明るさが感じられる。

 

昼下がりの白い茶房で傷口をつつましやかに見せつけあった

 

付き合い始めたばかりの頃に、お互いの過去やコンプレックスの話などをすることで、関係がより密接になるということはよくあると思う。で、僕はそういうのを開けっぴろげに行うのが好きではない(関係を進展させるためのダシに使っているような気がして)のだけれど、「昼下がりの白い茶房」で、「つつましやかに」そう言った話をするこの歌の二人には、とても好感を持った。

 

なつかしいお伽噺のようにきく君が挫折を物語るとき

 

「お伽噺のようにきく」という表現から、小さい子が母親の語る物語にわくわくしながら耳を傾ける様子が思い浮かぶ。主体はいわゆる「自分語り」を決して揶揄するようなことはなく、相手の話を真剣に、そして優しい気持ちで受け止めるのである。それは実は、自分も相手からそうしてもらえたらなあ、という気持ちと表裏一体でもあり、読み手はそこに強く共感する。

 

ちかづいてきて遠ざかるポストマン、音楽的といえる速度で

 

郵便配達の(おそらく)バイクの音が、近づくにつれてクレッシェンドし、遠ざかるにつれてデクレッシェンドする。その間に、ポストに手紙が入れられる時の音が聞こえる。その一連の音が「音楽的」という一語から豊かにイメージされる。「、」の後の「音楽的といえる速度で」は、まるで演奏記号(例えば、アンダンテ=歩くような速さで)のような書き方になっていて、面白い。

 

オアシスとしての自販機つぶ入りのいちごミルクを放課後ごとに

 

歌集後半の教師としての職場詠も印象的。仕事が一段落ついた放課後の自分へのご褒美に、ということだと思う。でもそれだけではなく、お茶や缶コーヒーではなく「つぶ入りのいちごミルク」なので、生徒に買っているところを見られるとからかわれるかもしれないので、こっそりと放課後に…というのもあるかもしれない。リアリティのある一首。

 

空ばかり眺めていちゃあいけませんひとりぼっちになってしまうよ

巣のような匂いの夜具にくるまれてこころは鳥のかたちに眠る

コーヒーの卓を隔てて遙かなるあなたは今も詩の中に棲む

ほろびる、としずかに声にだしてみるボディーソープを泡立てながら

草の葉の栞ありたり古本の青空市にページ繰るとき

 

読んでいて、とても優しい気持ちになれる歌集でした。続いて『バライロノ日々』を読みます…!

草の栞―歌集

草の栞―歌集

 

『MITASASA』第2号、相互評

三田三郎さん、ゲストの大橋凜太郎さんと発行したネットプリント『MITASASA』第2号ですが、配信残り二日の時点で前回の1号の出力数をすでに上回っており、たくさんの方にお読みいただいているようです。本当に有難うございます!さて、今回の連作の中から、お互いに好きな歌を選び、相互評を書いてみました。よろしければこちらもご覧ください!

 

呼びたい、と思えばひかり。でもひかり(あなたが予期せずして持つ身体)/笹川諒

 

我々が何かを認識する際、その対象が何であっても結局は可視光線を捉えているにすぎない。科学で証明されていることがすべて虚構かもしれないという事をこの歌の中で主体は根拠の無いある種、天体的な直感のようなもので感受する。「予期せず」という言葉からは表裏ふたつの意味が読み取れるが私は白い光に足を踏み入れるようにこの歌を読みたい。恐らくこの歌の主体も自身が過去「ひかり」であったことをどこかで感受している。そんな「ひかり」同士であったふたりが「予期せず」身体を持つことで改めて出会ったのだ。さらに言うとすればこの歌の上手さは句読点や()表記を違和感なく使いこなしている点だろう。充分に休符をいれて読むことで万葉集由来の連歌のようにふたりの人物の声が聴こえてくる。<大橋>

 

あなたとは民事・刑事の双方で最高裁まで愛し合いたい/三田三郎

 

事務的な定型の文体かと思いきや、結句で「愛し合いたい」へ反転する。それだけならたまに見かけるタイプのレトリックだが、「民事・刑事の双方で最高裁まで」という表現から想起される時間・労力・問題の複雑さ、「最高」という字面、さらに言うと「民事・刑事」のストーリー喚起力(サスペンスドラマや「天城越え」のような演歌的ドロドロ感をイメージする)、といった小道具が巧みに機能し、主体は果たしてどのように愛し合いたいと思っているのだろうかという疑問を、読み手は際限なく考えてしまう。<笹川>

 

バケツいっぱいのひかりをきみの目の前ですべて零してもいいですか/大橋凜太郎

 

もったいないからやめなさい。と言えるのは私が歌の外部にいる第三者だからだ。こう尋ねられた「きみ」は、その問いかけが帯びている迫力に押され、おずおずと頷いているような気がする。作中主体がやろうとしている行為は、些かサディスティックな様相を呈しながらもその実、刹那的な蕩尽の快楽を二人だけで共有したいという、透明な愛の経験への強い憧れに動機づけられているのだ。<三田>

ネプリ『MITASASA』第2号

短歌ネットプリント『MITASASA』の第2号が出来ました!

今回は新聞歌壇等で活躍中の、大橋凜太郎さんをゲストにお迎えしています。

 

・笹川諒「青いコップ」

・三田三郎「今日はもう終わり」

・大橋凜太郎「いっさいの虚構」

 

の各10首です。お読みいただけますと幸いです。

 

【出力方法】

セブンイレブン →予約番号09521400

ローソン他コンビニ →ユーザー番号45QEQLPQQ7

A4、白黒、両面(短辺とじ)、40円です。よろしくお願いします!

配信は1月17日木曜日までになります。

 

 

知恵の輪を解いているその指先に生まれては消えてゆく即興詩

(「青いコップ」『MITASASA』第2号より)

『短歌人』2019年1月号の、好きな歌10首(会員欄)

旅人の目をして生きてゐることをまぶかにかぶる帽子に隠す(冨樫由美子)

 

抒情とは震えのことに他ならず触れて良いものと悪いものとの(高良俊礼)

 

若い子に道を譲れと言われて泣いた長い氷河期の終わりに(国東杏蜜)

 

吉田君ときけば私は一番に牛のあの仔を思い浮かべる(髙橋小径)

 

放課後の横断歩道のバレリーナ青信号が本当に青い(北城椿貴)

 

読めといふ声にのまれて見渡せばいづれ読むべきもののゆふだち(鈴木秋馬)

 

小さめの声で子どもに注意する多分明日は夢を見られる(山川創)

 

カーテンを少し開けおく夜の窓夜の深さを測る猫あり(山中もとひ)

 

何故犯人は北へむかふか考へた結果わたしも北へむかふ(いなだ豆乃助)

 

かばんには防犯ブザーをぶら下げているのいまだに世界がこわい(古賀たかえ)

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

『MITASASA』第1号、相互評

歌集『もうちょっと生きる』の三田三郎さんと発行したネットプリント『MITASASA』第1号、思っていたよりもはるかに多くの方々にお読みいただき、大変嬉しく思っております。配信も今週日曜日までとなりましたので、三田さんとの相互評をこのブログで公開します。お読みいただけますと幸いです。

 

飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥(水の夢ばかり見る)/笹川諒

 

言葉はすぐに暴れるから、使わずに済むのだったらそれに越したことはないのだが、生活するためにはなかなかそうもいかない。だとすれば、飼い慣らす以外に選択肢はないではないか。それこそペットには向かない水鳥を飼い慣らすように。だが一方で、夢に見るのはいつも水鳥ではなく水だ。決して暴れることなく、なされるがままになっている水だ。言葉を飼い慣らした後も、ただ悠然と存在する水に表象される、言葉のない世界への逆説的な憧憬が、どうしても頭から離れないのだ。(蛇足を承知で付言すれば、隅々にまで気を配って作られたこの歌は、それ自体が言葉の飼い慣らし方をパフォーマティブに示すものとなっている。)<三田>

 

幸も不幸も他人に見せるものでなくツイッターには床の画像を/三田三郎

 

SNSには感情が過度にあふれている。時としてそれは、日常の対面でのコミュニケーションで表出される感情のレベルを、はるかに超える。床の画像をツイッターにあげるという主体の行為は、そういったSNSというツールの特性への反抗であり警鐘だととれる。しかし、この歌はそれだけの歌ではない。どこまでもフラットな床を見つめながら、色々な物事(たとえば幸福や不幸について)を静かに思索する主体にとって、その瞬間の世界を表象するものを一つ挙げろと言われたならば、眼前の平たく無機質な「床」でしかなく、決してそれ以上でもそれ以下でもないのだ。このツイートの画像は、ギャグなんかではなくて、どこまでも本気の「床」なのだと思う。<笹川>

ネプリ『MITASASA』第1号

歌集『もうちょっと生きる』の三田三郎さんと、ネットプリント『MITASASA』を作りました。

 

・三田三郎「ワンダフルライフ」10首

・笹川諒「天馬、あるいは」10首

 

を収録しています。お読みいただけますと幸いです。

 

セブンイレブン→予約番号G6HZ4J6Y(12月16日23時59分まで)

ローソン他コンビニ→ユーザー番号45QEQLPQQ7(12月17日11時まで)

A4、白黒、両面(短辺とじ・横とじ)、40円です。よろしくお願いします。

 

飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥(水の夢ばかり見る)

(「天馬、あるいは」『MITASASA』第1号より)

12月1日の日記

今日は朝から天王寺で用事。駅の改札を出る瞬間に、石松佳さんの「花野へと、そして花野へ逃げてゆくきみは回転扉の向こう」(『毎日歌壇』2017年8月21日掲載)という短歌がふいに頭をよぎった。好きだなと思っていながら、歌意が取りきれない部分もあった歌。「きみ」は「言葉」なのかもしれない、と思う。そして、石松さんの「絵の中の美濃吉」(『現代詩手帖』2018年10月号)という詩の冒頭、「たとえば長い回廊があったとして、同じ服を着た二人の女が理容院の鏡のように並んで走り抜ける」が思い出される。さっきの歌とイメージが重なる。それはともかく、短歌を始めてから、日常のふとした瞬間に、誰かの短歌がまるで自分の感情のように現れてくることがあって、不思議なことになってきたな、と思う。

 

用事が終わって、今日は映画の日らしいので、「ボヘミアン・ラプソディ」を観ようとする。まず、なんばに映画館がありそうな気がして、御堂筋線天王寺からなんばまで移動。駅に着いてからスマホで検索すると、満席だった。ああ、となったけれど、まあ仕方がないと気持ちを切り替えて帰路につく。事前にスマホでチケットを予約したり、空席のある映画館を探したりすれば良いのは分かってるけど、そういうのは平日の仕事の時や誰かと一緒に行動している時だけで、もうお腹いっぱい、という感じがする。法橋ひらくさんの「案の定バスは遅れてきたけれどちょうど良かった 乗りたくなった」(『それはとても速くて永い』)という歌があるけれど、こういう世界にたぶん、いつも憧れている。法橋さんと言えば数日前、ネプリ・トライアングルの感想を電話でいただき、とても嬉しかった。

 

帰りの近鉄の中では、千種創一さんの『砂丘律』を読んだ。その中の「あれは鯔。夕陽を浴びて預言者の歩幅で君は堤防をゆく」という歌がすごく良いなと思って、ツイートする。あんまり短歌単体のツイートをしても鬱陶しいと思われそうで、今日はこの歌のツイートにしておこうと思う。と、ここまで考えて、そもそもSNSにそんなに気を遣う必要があるのだろうか、とも思った。しばらくして、たまたま千種さんが歌集のことに関してツイートされていた。(おそらく)中東からのツイートをリアルタイムで読めるTwitterはやっぱり凄い、となる。SNSとの距離感は難しい。

 

帰宅してからは『月に吠えらんねえ』の8巻を読む。この漫画は平日に読むと翌日の仕事に影響が出るくらい精神的に揺さぶられるので、休日にだけ読むことに最近決めたのだった。主人公の「朔くん」(モデルは萩原朔太郎)がとても情緒不安定で、それに引っ張られてしまうのが原因。そうこうしていると、夕ご飯のタイミングを逃してしまい、閉店間際のスーパーに買い物に行く。半額のお弁当を買う。ついでに半額のお総菜も買って、大学生の時みたいだなと思った。僕が「大学生の時みたい」と思うとき、それは全て自分の中でプラスの意味を持っているな、ということを考えながら、次第に、感情について考え始める。そう言えば感情の差し出し方が美しい、みたいな歌、誰の歌だったっけ、と思って調べると、相田奈緒さんの「考えの差し出し方のうつくしいあなたの真似で五月を抜ける」(『短歌人』2018年8月号)だった。あ、感情じゃなかった。短歌人の中でも相田さんの歌は特に毎月楽しみにしている。

 

今日は短歌のことを殊更によく考えていた気がするけれど、きっとそれは明日が歌会だからだろう。だいぶ慣れてはきたとは思うけれど、歌会はいつでもちょっと緊張する。良い会になりますように。