Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『短歌人』2018年12月号の、好きな歌10首(会員欄)

秋という祈りの中に紫木蓮はぐれて一枝間の抜けた空(高良俊礼)

 

毎晩の眠りが日々の趣味となり安らぎゆくは死の練習か(いばひでき)

 

ひまわりじゃなかったダンデライオンのたてがみしわがれはててもう、秋(鈴木杏龍)

 

甥っ子が庭でバットを振っている何か言おうとしたけどやめた(宗岡哲也

 

虫になったり虎になったりするけれど夢の中では人間になる(千葉みずほ)

 

違うと泣く子の声がしてわかりたい皿のごはんをフォークで食べる(浪江まき子)

 

太陽の塔の中身が見られるという塔の中身で裏返る(国東杏蜜)

 

エジプトの駅という名のアルバムをポールが出した二〇一八(相田奈緒

 

きりのない懺悔のように引っ越しの荷を積みあげる さようなら街よ(葉山健介)

 

部屋ぬちにものを読み書きして過ぐすひと日ひと日で編む花鎖(冨樫由美子)

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

ネットプリントのお知らせ

水沼朔太郎さんのネットプリントに、「手に花を持てば喝采」10首が載っています。お読みいただけますと幸いです。以下詳細です。

 

ネプリ・トライアングル(シーズン3)第一回

セブンイレブン:83728225

ファミマやローソンなど:JMPN7A3TQ8

短歌連作十首×三人

笹川諒「手に花を持てば喝采

水沼朔太郎「おさきに」

多田なの「こんな日の体育」

A4一枚 20円 11/26まで

 

歯を磨くたびにあなたを発つ夜汽車その一両を思うのでした/笹川諒

『ネプリ・トライアングル(シーズン3)』第一回より

<一首評>服部真里子さんの短歌より

雪柳てのひらに散るさみしさよ十の位から一借りてくる(服部真里子)

 

 第二歌集『遠くの敵や硝子を』(書肆侃侃房、2018年)より。雪柳は、春に小さな白い花を咲かせるバラ科の植物である。また、下句の「十の位から一借りてくる」というのは、小学校で習った繰り下がりの引き算のことだろう。主体は、手のひらに落ちてきた雪柳の細い花びら一枚のビジュアルから、引き算の筆算で繰り下がりを行う際に十の位に書く「斜線」を想起する。それは、視覚的な類似に加え、花びらが手のひらに落ちてきたときのほんのかすかな「さみしさ」が、小学校時代を懐かしむときのそこはかとないさみしさと共鳴したからでもあるのだ。大人になった私たちは、面倒な計算は電卓等で全て済ませてしまうので、引き算の筆算という行為自体が学生時代の思い出とリンクするノスタルジックな感覚は、実感として何となく分かる。

 さみしいという感情にはグラデーションがあり、その程度を的確な言葉で言い表すのは難しい。では、主体がこの歌で感じているさみしさの程度がどれくらいであるか、それは、引き算の筆算で十の位から一借りることで数字が大きくなる(たとえば2が12になる)くらいの補填で埋め合わせができるくらいの、ごく些細なさみしさだった、という風に私はこの歌を読んだ。難解な歌なので、もちろん他にも解釈は色々あるだろう。

 雪柳の花びらから、繰り下がり計算の際の斜線をイメージし、さみしさの度合いを数の増加で補填できるくらいのささやかなものだと喩えるこの歌の詩的飛躍についていくのは、正直かなり困難であると言える。しかし、歌が破綻するかしないかのギリギリのラインで勝負していることによる緊迫感とスケールの大きさに惹かれ、歌集の中でも特に好きな歌だと思った。

 「十の位から一借りてくる」という表現は、ただ突飛でユニークなだけではない。

 千の言語、万の言語で話すのが銀杏並木のやり方だから

 人々の手はうつくしく四則算くり返し街に雪ふりやまず

 草むらを鳴らして風がこの夜に無数の0を書き足してゆく

数学的な比喩を、服部さんは『遠くの敵や硝子を』の他の歌でも使用している。これらの数学的な表現が選択された背景には、服部さんの作品群が世界のシステムの再構成・再定義を志向していること(ここではこれ以上触れないけれども)が、深く関係しているように思う。

自選三十首

繁茂するイルミネーション 僕たちはカタカナの水草で寄り添う

 

寒くなることを確かさだと数え指一つ折り三叉路をゆく

 

サンサーラ)草笛として(サンサーラ)夜の砂漠を這う風として

 

奥歯から磨いて犬歯で現れる猫がケーキを食べた思い出

 

一時間九百円で働けば九百円にちぎれる世界

 

あなたよりあなたに近くいたいとき手に取ってみる石のいくつか

 

鯛焼きを君が食べてたその日から頭のどっかに鯛焼きの部屋

 

かなしみはかけら かけらの僕たちは小箱を一つ互いに渡す

 

喩としてのあなたはいつも雨なので距離感が少しくるう六月

 

これ以上乗ってこないで 乗客が目と目で唱和するわらべうた

 

大丈夫、かなしくたって内側はごくさい色の雪 きれいだよ

 

クリムトの絵画、メーテル、暗がりの杏子酒(ながれるよるはやさしい)

 

冷えた手の甲を重ねて僕たちは既視感の王国を出る舟

 

線香と春は親しいのだけれど美味しいパンを買いに行こうよ

 

自分から死ぬこともある生きものの一員として履く朝の靴

 

花冷えのミネストローネ いきること、ゆたかに生きること、どうですか

 

優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊

 

耳の良い水たちばかりなのだろう春の終わりは雨、アルペジオ

 

良い大人にはなれなくて『椿姫』読みつつ凭れている冬の駅

 

くまモンのポーチを買った 人が人を産むことがとてもこわいと思う

 

町工場過ぎれば機器にあこがれて冬の陽ざしの透過器となる

 

性愛という文脈を外れずに朝日を浴びてそのモノレール

 

君が火に燃える体と知りながらひたすら赤いお守りを買う

 

感情を静かな島へ置けば降る小雨の中で 踊りませんか

 

フランス語学び始めてしばらくは君が繰り返したジュ・マペール

 

自画像のような夕日で思い出す世界の猫がいた百貨店

 

無題という題がどれだけ美しいことかを伝えたくて会いにゆく

 

ソ、レ、ラ、ミと弦をはじいてああいずれ死ぬのであればちゃんと生きたい

 

友達を家具に喩えてゆくときの家具には家具の哲学がある

 

夏の窓 磨いてゆけばゆくほどにあなたが閉じた世界があった

 

☆★☆★

 

自選三十首をまとめてみました。感想等いただけましたら幸いです。

『短歌人』2018年11月号の、好きな歌10首(会員欄)

つぎつぎと割れゆくせんたくばさみさすひのひざしれきしとは石と灰(鈴木杏龍)

 

コーヒーの水面は揺れてその底にかがやく闇があり更に雨(高良俊礼)

 

三年間一度たりとも使わずに埃をかぶる穴あけパンチ(上村駿介)

 

角を曲がります、と心につぶやいて角曲がります虹が出てます(古賀大介)

 

癒さるることを拒否してゐるやうな樹のいつぽんが身のうちにあり(冨樫由美子)

 

ただの文字ただの機械の呟きの笹井botに泣かされている(真中北辰)

 

わが歌をひとごととして読むときに得体の知れぬ肌に触れたり(鈴木秋馬)

 

嫌だなぁと思う話がコーヒーゼリーになって三人を笑顔にさせた(佐々木紬)

 

部長がくれたハーゲンダッツハーゲンダッツ部長は祝福ができるひと(山本まとも)

 

ごめんなさい光源と角度を凝らして芸術点でなんとかしたい(北城椿貴)

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

『短歌人』2018年10月号の、好きな歌10首(会員欄)

少年が光線(ひかり)の中をよぎり来てわれにものいう双腕を垂り(北岡晃)

 

ひまわりの背丈こえたらあとはもう、ただ、もう、ひとりびとりの道途(鈴木杏龍)

 

出身を聞けば「火星」と真剣に答えるような男の寝顔(鈴掛真)

 

満ちてゆく今朝の木漏れ日葉脈を巡ればひかりいま夏の色(高良俊礼)

 

缶コーラおごってくれる父のいて夏しゅわしゅわと定型にあり(古賀大介)

 

蝉よ蝉、SF的な御茶ノ水。われ泣きぬれてぢつと手をみる(いなだ豆乃助)

 

フロアには大きな光の輪が回り曼荼羅のよう 僕らは踊る(空山徹平)

 

1ぴきとひとりの止まる道のうえ白くて太いひらがながある(相田奈緒

 

昼ならば青空だろう真っ黒な空にかざしている500円(山川創)

 

落ちてきたような雀がちゃんと立つ 曇り日の昼休みの路地に(山本まとも)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

三田三郎『もうちょっと生きる』

 昨日葉ね文庫でお会いした、三田三郎さんの第一歌集『もうちょっと生きる』を読んだ。

 

・1日を2万で買ってくれるなら余生を売ってはいさようなら

 

結句の「はいさようなら」に驚く。余生を一日二万円で売って、そのお金を何かに使おうという訳ではなく、ただ人生を終わらせるための何か些細なきっかけでもあれば、それに乗っかってしまうのに、という主体の切迫した希死念慮が読み取れる歌である。

 

・飛び降りる者にとっての天国はコンクリートの下のまだ下

・終電が行けば朝まで鮮血を浴びることなく眠れる線路

・ほろ酔いで窓辺に行くと危ないが素面で行くともっと危ない

 

この歌集における希死念慮は、死への甘やかな憧れのような表面的なものではなく、かなりのリアリティを伴って描かれる。自分が飛び降りた後のこと、電車にはねられた後のことまで明確にイメージされていて、「素面で行くともっと危ない」のような表現は、自死という行為について日頃から思いを巡らせていないとなかなか出てこない表現なのではないかと思う。ネガティブな感情ではあるのだけれど、このリアリティはこの歌集独自のものだ。

 

・ただ一つ信じるならばキャバクラの上に学習塾のあるビル

・鼻毛をも教えてくれる友人が教えてくれぬ数々のこと

・こっそりとさよならを言う離れると水の流れる便器のように

 

三田さんの短歌の更なる特徴として、「キャバクラ」「鼻毛」「便器」といった、一見露悪的な単語を使った歌に、とても存在感がある。キャバクラや鼻毛の歌では、偽善やうわべではない「本当のこと」を切に求める主体の清らかさが、露悪的な単語から逆照射されることで、かえって際立っている。

 

・録画した野球中継巻き戻し未知の病気の自然治癒待つ

・空き瓶の奥に新たな瓶が待ち修行のように飲酒は続く

・教室で喋ると教室に喋らされてる気がしない? しない、ああそう

 

歌集タイトルが『もうちょっと生きる』ということもあり、歌集全体を通してどうしても生/死が主題の作品が多いが、主題とは少し外れた、上記のような面白い作品も収録されている。歌集が一ページにつき一首組みになっていることからもわかるように、三田さんの短歌は一首の独立性や密度がきわめて高い。これから三田さんがどういう主題やテーマで短歌を作られていくのかはわからないが、「仕方なく電車を降りた先」できっと生まれる、素敵な短歌を楽しみにしていようと思う。

 

・山手線十周しても人生は終わらないから渋谷で降りる

 

 

もうちょっと生きる―歌集

もうちょっと生きる―歌集