「短歌人」の橘夏生さんの第三歌集、『セルロイドの夜』。六花書林、2020年。
巴里のふゆ書割りめきて羞(やさ)しきを睫毛に雪をためしリセアン
朱(あけ)の甍に雲すぎゆきぬサンタ・マリア・デル・フィオーレに春を残して
雨の朝上海に死すことのほか希ひはあらず過ぎし日おぼろ
昼の湯に浮かびし思惟は離れがたしたとへば閔妃暗殺について
かがやける夕雲のはてわれはまだ原子力の顔をみたことがない
下京区天使突抜(てんしつきぬけ) 雪晴れのさんぽはクノップフの豹をおともに
パプリカの種抜きをへてキッチンは洋書売り場のやうにさびしい
トルソーの不在の首のかがよひをおもふまで碧き海に出でたり
うつしよに在るかなしさよ木枯らしのなかにジャングル・ジムは毀れず
おびただしい数の固有名詞が登場する。藤原龍一郎さんの<世界とは時代とは数限りなき固有名詞の羅列にすぎぬ>という歌を思ったりした。「デカダンスとイノセント」をテーマに、時代や国境を軽々と飛び越えながら、紡がれてゆく歌の数々。