「短歌人」の橘夏生さんの第二歌集、『大阪ジュリエット』。青磁社、2016年。
川本くんが棲む大鏡あるといふガラス問屋にわれは行きたし
「川本くん」は、作者の長年のパートナーであり、「短歌人」にも所属されていた川本浩美さん(歌集に『起伏と遠景』)のこと。あとがきに「現在の私が一等詠みたかったのは、川本浩美の挽歌」と書かれているように、『大阪ジュリエット』には川本さんへの挽歌が多く収録されていて、その中の一首。鏡の中に別の世界が広がっているというイメージはわかりやすいが、その辺にある鏡ではなく、ガラス問屋の大鏡でなければならないというところに、求めるパラレルワールドとの隔絶感、ファンタジー的な奥行きがあるように思う。
天国ならどこにでもある新世界の串カツ屋の列にふたり並んで
「天国」と「新世界」という地名のひびき合いと、通天閣があり観光客も多く賑わったエリアである「新世界」の非日常の雰囲気、そして、まるで天国へと続く列に並んでいるかのような錯覚を読み手に与える点等、均整のとれた良い歌だと思う。とはいえ、歌集全体を通してこの歌を見ると、よく練られた歌というよりは、作者の率直な実感の歌なのだろうという気がしてならない。<天王寺の少女イエスはわたしです亀のゐる池の上を歩いてゐます>や、歌集のタイトルを含む<二十三階のバルコニーにて川本くんを待つわたしは大阪ジュリエット>のように、作者にとって自身が生活している大阪と、文学や神話の世界は近接していて、時に渾然一体となるのだろう。そのような独自の感性に、歌集一冊を通して心を惹かれた。
オートバイを真紅の薔薇で埋めたりしアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ
「アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ」は、フランスの作家。詳しい知識は残念ながら無いが、『オートバイ』という作品があるようなので、その作品の一場面かもしれない。下の句を人名のみで蕩尽することによって、薔薇で埋めつくされたオートバイの景が鮮やかに現出する。作者はあとがきで(今回の歌集は川本さんの挽歌や母親の歌を多く収録したことを踏まえ)「二、三年後には、本来の橘夏生の歌、キラキラして美しくペダンチックな歌を中心にした、第三歌集を出版したいと思っている」と書いているが、「本来の橘夏生の歌」というのは、このオートバイの歌のような歌のことではないだろうか。次の歌集が読める日を楽しみに待ちたい。
さくらさくら何処(いづこ)にしらほね隠したる針のやうなる雨ふりしきり
雨のそらに吹くシャボン玉 夭折の友にはつひに負けただらうか
きみの背にほくろの星座みつけたり世界が終はるならこんな夜
肢もとにともるペディキュア 最下級貴族のやうに街を歩かう
人工ダイヤの乱反射率を覚えませう終はらない夏休みが終はるまで