Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』

みずうみに出口入口、心臓はみえない目だからありがとう未来/瀬戸夏子

 

 

中学生の時、英語の授業で、好きな色を紙に英語で書いて、自分と好きな色が同じ人を探してペアになるというゲームがあった。僕は普通にwhiteと書いたのだけれど、whiteの人が全然見つからなくて、最後まで残ってしまった。結局40人いたクラスで好きな色が白だったのは、僕だけだった。普段同じテレビ番組の話をしたり、同じ先生の悪口を言い合ったりしていたはずなのに、あれ、何かおかしいなと思った。自己と他者との間の果てしない隔たりをはっきり意識したのは、ひょっとしたらこの時が初めてだったかもしれない。

 

という記憶を、瀬戸夏子さんの『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を読んで、なぜだかふと思い出した。瀬戸さんの短歌を論じるのはとても難しいと思う。丁寧な読みはもちろん、短歌に関する一定以上の前提知識も求められる。

 

 

「瀬戸夏子の作品からは、手ブレの映像のような印象を受ける。リフレインが多いせいだろうか。一首の中で、少しずつ意味や見え方を変えながら繰り返される単語が、残像を思わせる。」(服部真里子、『そのなかに心臓をつくって住みなさい』栞文、p.3)

「コラージュ、という言葉が一番近いような気がする。ひとりで作る「優美な屍骸」のようなものだ。」(平岡直子、同上、p.6)

 

また、この歌集に収録されている<心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで>という瀬戸さんの歌に関して、

 

「瀬戸さんの歌は、(中略)「心が複数ある」、あるいは、「心がない」ようにおもいます。」(三上春海、『誰にもわからない短歌入門』、p.20)

「矛盾する散文的感情どうしの「混声」と言うよりも、ひとつの韻文的な、論理や理性に回収される以前の、まだ名前を持たない叫びのようなものとしてこの一首はあるのだと思う。」(鈴木ちはね、同上、p.21)

 

 

これらの鋭い批評を読んでいくと、少しずつ瀬戸さんの作品世界が分かってくる。他者への意思伝達手段としての言語に変換される前の「言語」で、瀬戸さんの短歌は書かれているのだろう。コラージュ、多声的といったキーワードも、そういった作歌姿勢の産物だと考えると、理にかなうような気がする。

 

冒頭の話に戻ると、我々は日常生活では論理や理性の力を借りることで何とか他者と帳尻を合わせられてはいるが、本当は自己と他者の間には決定的な隔たりがある、ということをよく心に留めておかなければならないのだと思う。その事実を真正面から突きつけてくるこの歌集に、目の覚める思いがした。

 

以下、今まで他の媒体(アンソロジー等)で見たことがなかったものの中から、好きな歌を。

 

・きみが呼ぶどんな名前もすいかで仔犬で、ここは南極?、すごい匂いで

・アヒルから友人のほうへたくさんのわたしのミューズは苦しんで死ぬ

・海をまるごと吸いこむピアノ 食卓に並ぶ 海をまるごと吸いこむピアノ

・いうときにもとにもどしたひまわりが火のなかをわたり死のさくらん

・太陽を奪う太陽 % テントウムシ畑になってしまった貴方は

 

 

そのなかに心臓をつくって住みなさい

そのなかに心臓をつくって住みなさい