好きな食べ物を、100個思いつくまでここに記入していきます!(現在20個)
杏仁豆腐、鰻、オクラ、回転寿司の海老、campの野菜カレー、葛切り、グミ(表面がざらざらしていないもの)、蒟蒻ゼリー、食パン、大学芋、ナタデココ、のりっこチキン(冷凍食品)、トマベー、海苔、パイナップル、回鍋肉、明太だし巻き、マーマレードジャム、山芋の鉄板焼き、湯葉、…
MITASASA増刊号(歌集を読む!編2)の原稿を募集いたします!
前回<MITASASA増刊号(歌集を読む!編) - Ryo Sasagawa's Blog>は、大橋弘さんの第三歌集『既視感製造機械』を取り上げ、多くの方にお読みいただきました!
二回目の今回は、まずは身内からということで(?)、三田三郎さんの第一歌集『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)の一首評企画を行います。
コロナの影響で、最近読んだ歌集の話を誰かとするというのもなかなか難しい状況の中、歌集の感想を大勢で共有できる機会があれば……というのが前回同様、この企画の趣旨です。どなたでもお気軽にご投稿ください。
三田三郎『もうちょっと生きる』は、AmazonやBOOTH(歌集『もうちょっと生きる』 - ぱんたれい - BOOTH)で購入可能です。BOOTHだと、消費税の分だけ少しお得です。
【MITASASA増刊号 歌集を読む!編2】
配信方法:
ネットプリント、Twitter等でのPDF公開 (2020年6月中旬頃予定)
募集内容:
三田三郎『もうちょっと生きる』から、好きな一首を選び、その歌についての200字程度の一首評(字数は、多少増減しても大丈夫です)。
※すみませんが、謝礼等はございません。ご了承ください。
締切:
①参加締切 2020/6/7
参加お申込みの際に、一首評をどの歌で書くかをお知らせください。希望の歌が重複した場合は、先着順にさせていただきます。
また、参加希望者があまりに多い場合は、募集を途中で締め切る場合もあります。
※参加したいけれど、どの歌で評を書くかをじっくり考えたいという方は、ひとまず参加のお申し込みをしていただき、歌の希望を6/7までに送っていただくという形でも大丈夫です。
②原稿締切 2020/6/14
参加申込み・原稿の送付:
Twitterの場合→MITASASAのアカウント(@ms_yogisha)宛にDM
メールの場合→ryo.ryo.ryo514☆gmail.com (☆を@に)
たくさんのご投稿、お待ちしております!
(以下、三田三郎『もうちょっと生きる』より五首抜粋)
1日を2万で買ってくれるなら余生を売ってはいさようなら
ただ一つ信じるならばキャバクラの上に学習塾のあるビル
今日の酒昨日の酒に追い付いて明日の酒は今どのあたり
代金をちょうどで払い終えたあと侍のように財布をしまう
やり投げの選手はやはり投げやりにならぬものかと思いつつ寝る
MITASASA増刊号(歌集を読む!編)の配信を開始しました!
今回はPDFでの公開も行っておりますので、お好きな方法でお読みいただけましたら幸いです。大橋弘さんの第三歌集『既視感製造機械』(六花書林)の、11名による一首評です。
【寄稿者のみなさま(五十音順・敬称略)】
綾部宏子、金川宏、笹川諒、沢茱萸、多賀盛剛、土井礼一郎、冨樫由美子、法橋ひらく、三田三郎、椰野かおる、山下翔
【PDFへのリンク】
MITASASA増刊号(歌集を読む!編).pdf - Google ドライブ
【ネプリ出力方法】
セブンイレブン→25213288
ローソン他コンビニ→45QEQLPQQ7
A3白黒1枚20円です。5月20日水曜日まで。
【歌集の購入について】
版元の六花書林さんのホームページ、一部のネット書店等で購入が可能のようです。
小説のいちばん始めの会話文みたいに君の声が響いた
(鈴掛真『好きと言えたらよかったのに』)
この歌を読むと、自分が人生で初めて読んだ小説の、最初に出てくる会話文のことをどうしても考えてしまう(歌自体はそういうことは言っていなくて、単純に一冊の小説の~という話なのだけど)。国語の教科書に載っているものを除くと、僕が初めて意識的に読んだといえる小説は、秋田禎信さんの「魔術士オーフェン」シリーズ(富士見ファンタジア文庫)だ。オーフェンに限らず、当時(中学一年生頃)はライトノベルをよく読んでいて、ラノベ独特の、やや芝居がかったというか、人間同士の自然な会話としては若干ぎこちなさのある会話文に、不思議な印象を抱いていた。
オーフェンシリーズはとても楽しく読んでいたから別のラノベ作品の話だけど、作品のクオリティによっては、注意して読み進めないと誰から誰への発話なのかわからないということが時々あった。いや、当時の読解力の低さのせいもあるかもしれないけど、どれだけ前後の文脈や登場人物たちの口調などのあらゆる要素を吟味しても、誰の発話が判定が不可能なことさえあった。
ただ妙なことに、ラノベの不思議な会話文、特に<誰から誰へ向けられているのかわからない発話> に対して、僕はうっすらとした魅力を感じていた。そんなものはそれまでの日常生活では聞いたことも読んだこともなかったからだ。発話者も聞き手も靄の中に包まれた<会話>は、現実世界から遊離した言葉の世界にしか存在しない。
透明なせかいのまなこ疲れたら芽をつみなさい わたしのでいい
(井上法子『永遠でないほうの火』)
眼裏(まなうら)に散らす暗号 うつくしい日にこそふかく眠るべきだよ
それから何年も経って短歌を始めるわけだけど、口語短歌によく見られる呼びかけの口調に特に惹かれた。これこそまさに、さっきの<誰から誰へ向けられているのかわからない発話> ではないだろうか。作中主体と言われる不明瞭な発話者による、不特定の(もしくは特定の一人が作者には想定されていたとしても、読み手には一切わからない)誰かへの呼びかけは、どうしてこんなに優しく感じられるのだろう。
ラノベ作品に登場する会話文のバグ(?)はいわば事故として発生したものだけど、自分の短歌の好みと、一本の細い線でつながっているような気がしてならない。
MITASASA増刊号(歌集を読む!編)の原稿を募集いたします!
今回の増刊号では、この4月に発行された大橋弘さんの第三歌集『既視感製造機械』(六花書林、2020年)の一首評企画を行います。
コロナの影響で、最近読んだ歌集の話を誰かとするというのもなかなか難しい状況の中、歌集の感想を大勢で共有できる機会があれば……というのが今回の企画の趣旨です。どなたでもお気軽にご投稿ください。
大橋弘『既視感製造機械』は、出版元の六花書林様のウェブサイト(六花書林 出版刊行案内)にて購入可能、Amazonには今のところないようです(2020/4/17現在)。
【MITASASA増刊号 歌集を読む!編】
配信方法:
ネットプリント、Twitter等でのPDF公開 (2020年5月中旬頃予定)
募集内容:
大橋弘『既視感製造機械』から、好きな一首を選び、その歌についての200字程度の一首評(字数は、多少増減しても大丈夫です)。
※すみませんが、謝礼等はございません、ご了承ください。
締切:
①参加締切 2020/5/3
参加お申込みの際に、一首評をどの歌で書くかをお知らせください。希望の歌が重複した場合は、先着順にさせていただきます。
また、参加希望者があまりに多い場合は、募集を途中で締め切る場合もあります。
②原稿締切 2020/5/10
参加申込み・原稿の送付:
Twitterの場合→MITASASAのアカウント(@ms_yogisha)宛にDM
メールの場合→ryo.ryo.ryo514☆gmail.com (☆を@に)
たくさんのご投稿、お待ちしております!
(以下、大橋弘『既視感製造機械』より五首抜粋)
俺はどこに行こうとするの開け閉めを重ねた金庫のように無口で
いま午後の毛玉を取ってしまったらもうやることのない夏なのである
日が暮れて少し強気でいられるが天使が来たら負けてしまうよ
明け方のサーカス小屋の静けさがあるだろ俺の名刺の書体
心臓と同じ高さに夕焼けを置き、それからがみなしごだった
MITASASA第14号の相互評を公開いたします。今回はメンバーの三田三郎・笹川諒に加え、暮田真名さんをゲストにお迎えしての川柳号でした!
自分から自分にうつる風邪もある
/三田三郎「アナザーストーリー」
「風邪」について述べている句でありながら、より強い印象を受けるのは「自分から自分にうつる」という箇所だ。単純に言えば、ここには「自分が二人いる」ような気がする。ふつう風邪というのは一度引いて、治り、そしてまた引くものである。掲句のように「自分から自分に」風邪をうつしていたのでは、身体が休まる暇がない。自分が二人いることの怖さを教えてくれる句だ。<暮田>
金柑の中の王都を煮詰めよう
/笹川諒「釘」
あの黄金色の小さな果実の中に、「王都」があるという。それを「煮詰めよう」としている。火にかけられた金柑はやがて煮崩れするだろう。王都もまた。王都が崩落する。内部の人間に転覆されるのではなく、外部から加えられる不可抗力の力によって。金柑の中に収まるミニチュアの王都を崩すことには、精巧な模型を手掴みで壊すような奇妙な恍惚も伴うだろう。そのすべてが黄金の光につつまれている。<暮田>
アルミホイルに包まれたままの人がいる
/暮田真名「この世のベッドルームミュージック」
我々はみな母体から生まれてきたかのような気になって暮らしているけれども、誰も自らの誕生の瞬間を記憶しているわけではないのだから、実際は神秘化された空想の始点を共有しようという暗黙裡の協働に便乗しているだけなのかもしれない。人間などというものは案外、登山客が一休みする際にリュックサックから取り出す握り飯のように、どこからともなくアルミホイルに包まれてこの世に生まれてくるのかもしれない。とすれば我々は、どこかのタイミングでアルミホイルを脱ぎ捨て、その後はあたかも母体から生まれてきたかのように白々しくすまし顔を決め込み、自らの出生の真相を都合よく忘却しているのだろうか。そして、そこに突如として現れる「アルミホイルに包まれたままの人」という存在は、そうした社会の共同幻想的欺瞞を告発するトリックスターとしての役割を担いうるのではないか……。
この句は、社会に蔓延る欺瞞を暴き出すという批評的な構えを保持しながらも、それをひとまず極限まで形式化した後に、改めてキュートでユーモラスなポエジーを充填するという、周到な手続きを踏んで作られている。乱暴な図式化であることを承知で言えば、この句は古川柳と現代川柳の止揚に成功している。そのレベルの句と対峙しているのだから、評者の私が少しばかり錯乱しているのは当然のこととしてご容赦願いたい。<三田>
末弟がヒヤシンスより多いです
/暮田真名「この世のベッドルームミュージック」
末弟は、一番末の弟のことなので、そもそも二人以上の人物を指し示すことができない日本語だ。なので、厳密に文意をとると、この句は弟が何人いるかというような話ではなくて、末弟とヒヤシンスを比較した際に弟の方に何が「多い」のか、が省略されている句だと考えられる。省略部分を強引に補うとすれば、たとえば、水を飲む量が多い、とかになるだろう(それも変な話だけれど)。末弟とヒヤシンスを同じ土俵に引きずり出してくるところが面白い。
しかし、読み手はこの句を初めてぱっと見せられたときに、果たしてそのように句を読むだろうか。私は初読時、何でこの人はそんなにたくさん弟がいるのかな、と一瞬思ってしまった。ヒヤシンスといえば、水栽培をしたときに球根の末端から生えてくる無数の白い根っこを思い浮かべる人も多いだろう。無意識のうちに、ヒヤシンスの根っこの本数と弟の数を頭の中で比較してしまっていた。「末弟」という一人しか指すことのできない単語と、「ヒヤシンス」と聞いて読み手がイメージする映像を巧みに利用した、言葉のイリュージョンのような句だと思う。<笹川>
俺はどこに行こうとするの開け閉めを重ねた金庫のように無口で(大橋弘)
大橋弘さんの第三歌集、『既視感製造機械』(六花書林、2020年)より。「開け閉めを重ねた金庫のように無口」とは、いったいどういうことだろうか。金庫はとても大事なものを入れるためにあるけれど、何度も開け閉めをするうちに中のものの価値が次第に下がってしまうような感じは、何となくわかる気がする。強いていえば、友達から旅行のお土産に素敵な置物をもらったりして、そのときは宝物にしようと思っても、毎日眺めているうちにだんだんその置物への関心や愛着がなくなってしまうときのような感覚と近いと思う。「俺」は元来、何か切り札のような魅力を備えた人物だったのかもしれない。しかし今やその魅力が何らかの理由で摩耗してしまい、「無口」、つまり価値を失ってしまったのだ。
「口」の漢字は、金庫の四角い形状を連想させる。また、金庫の固定されて動かない、重量感のある性質は、上句の「どこに行こうとするの」に対して、結局この場を動けずどこへも行くことができないかのようなイメージを付与している。巧妙に設計されたどこかコラージュのような言葉の連なりが、不思議なくらいに読み手の内側へ浸透する力を持っている。