Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

猫の短歌

今日2月22日は猫の日ということで、ここ1~2年で読んだものの中から、好きな猫の短歌を集めました。

 

春の世はかずかぎりなき猫の毛が猫におわかれしてゆくところ

/内山晶太「ギンビス」『外出』創刊号

 

猫たちは永遠に猫 夕焼けや朝焼けのそこぢからにつつまれて

/大森静佳「数えきれないうつくしい穴」『Sister On a Water』vol.2

 

いつかふたり夜のプールに見たひかる眼の猫あれは義賊だったね

/笠木拓『はるかカーテンコールまで』

 

旅をしようよものすごくにらむ猫の耳に西日が当たっている

/国東杏蜜『短歌人』2019年4月号

 

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに

/笹井宏之『八月のフルート奏者』

 

ゆうぐれに吹かれてすごす猫の目にすきとおってゆく僕のアネモネ

早坂類早坂類自選歌集』

 

庭先のまるい日向にまどろめる明治を知つてゐるやうな猫

/林和清『去年マリエンバートで

 

チェシャ猫のあると思えば消える背をずっと歩いてきたようでした

/平岡直子「鏡の国の梅子」『外出』二号

 

お布団の地平線からずんずんと猫現れて猫迫りくる

枇杷陶子「毎日歌壇」2019年6月24日 伊藤一彦選

 

草食んでぢつとしてゐる夜の猫とほいなあ いろんなところが遠い

/山下翔『温泉』

『MITASASA』第12号、相互評

MITASASA第12号の相互評を公開いたします。今回はメンバーの三田三郎・笹川諒に加え、門脇篤史さんをゲストにお迎えしています。

 

棒として駅前に立つ 体ってこんなに冷えていいものなのか

/三田三郎「冬は寒いから」

 

 寒空の下で屋外に立っていると驚くほど体は冷える。指や耳鼻などの露出している末端部分は感覚がなくなり、身体の中心までじわじわと冷えていく感覚がそこにはある。本歌で提示されているのは体が冷えている状況で、それは「こんなに冷えていいものなのか」という疑問形で提示される。そこにちいさく切実さのようなものが灯っていると思う。

 もちろん、この自問のような疑問形に対する答えとしては、「多分、大丈夫やで」が用意されていると思うのだけど、寒いのはつらいし、なにより、極寒→体温低下→死という一般的なイメージもあるので、やはりどこか切実さを感じてしまう。例えば、「こんなにも芯まで冷えて凍えるからだ」のような寒さの直接的な提示にくらべると、ほんとうにかすかにだけれど、自分の生に、あるいは死に触れたという手触りがこの歌には宿っていると思う。

 「体って」と意識と肉体を切り離しているような表現に、自己の体を物質として把握している印象が漂う。それは、初句の「棒として」にも響く把握だ。自分を物質として把握したときに、逆説的に触れることができる生の実感のようなものが、ここにはあるのかもしれない。<門脇>

 

こころの位置が微妙なときは夕暮れをコントラバスに喩えてみたら

/笹川諒「フォルム」

 

 こころの位置が微妙なときは、ある。嫌だとか、悲しいとか、嬉しいとか、そのようなはっきりと既存の感情を規定する言葉を持てないような心持ちで、それでいて、精神的にほんのりと閉塞しているような感じがするとき、それをこころの位置が微妙なときと呼ぶことができる、ような気がする。

 「こころの位置が微妙なとき」に対して提示されるのが、夕暮れをコントラバスに喩える行為だ。この比喩には不思議な納得感がある。夕暮れはバイオリンでもチェロでもなく、コントラバスに喩えるべきだという不思議な納得感。夜に向かって進んでいく「夕暮れ」に、音楽を根底で支えるコントラバスの音色はイメージとしてどこか響き合う。また、ともにサイズ的な、あるいは時間的な段階があり、(オクトバスのような規格外をのぞけば)両者ともに最後の段階だ。

 松木秀さんに「夕暮れと最後に書けばとりあえず短歌みたいに見えて夕暮れ」(『5メートルほどの果てしなさ』)という歌があるが、詩の中で、夕暮れという時間帯は様々なイメージを惹起する言葉だろう。ただ、松木さんの歌にあるように、「夕暮れ」という言葉を実感を持って把握して使用しているかと言えば、少々心許ない気がする。掲出歌におけるコントラバスのに喩える行為は、夕暮れを捉え直す行為ではないだろうか。そして、その行為は、定まらない心の位置を捉える行為に近いような気がする。

 私の解釈は心許ないものだけど、この歌を読み、コントラバスが背後に流れる夕暮れを思い浮かべるとき、私の中の何かが落ち着いていく気がする。<門脇>

 

納豆をかき混ぜながら聴いてゐるゲット・アップ・ルーシーとほきひかりよ

/門脇篤史「水音」

 

「ゲット・アップ・ルーシー」は、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTという日本のロックバンドの曲。歌詞は「ねぇルーシー 聞かせてよ/そこの世界の音」というようなルーシーへの呼びかけに対して、「黙りこむ 黙りこむ」のような拒絶や無反応といったディスコミュニケーションが繰り返される構造になっている。ルーシーはこの世から去ってしまった恋人かもしれないし、もっと単純に、届かない恋心を歌った失恋の歌かもしれない。いずれにせよ、想いが届かないことに対する断絶感が鋭く伝わってくる楽曲だ。

 連作「水音」は、光を直接的あるいは間接的に詠んだ歌が多く、十首目には、かつて自分が誰かから受けた「中傷」を光に喩えるという印象的な歌もある。では、掲出歌の「とほきひかり」とはどのようなものなのだろう。かつての恋人などを指すとも考えられるが、それよりも「ゲット・アップ・ルーシー」で歌われている喪失感や断絶感それ自体を、まるで光のように感じているような印象を受けた。それは、手元の納豆をかき混ぜる音によって途切れながら聞こえる「ゲット・アップ・ルーシー」の歌詞の、更にそのまた先に、主体が思い描く光が配置されているからだろうか。それはあまりに遠くかすかで、よくありがちな過去の恋愛への追想とは、少し性質が違う気がするのだ。<笹川>

 

枯れ枝のはぜるたき火に手をかざすごとくにひとと距離を取りにき

/門脇篤史「水音」

 

 何かはっきりとしたきっかけがあったわけではないが、ある時期から私は、親しい他者とも必ず一定の距離を保つよう強く心がけるようになった。それは決して全ての他者を拒絶するようになったというようなことではなく、心地よく感じる他者との距離感がかつてと変わっただけである。

 門脇さんのこの歌を読んで、他者との関係性における理想の姿はこれだと、思わず膝を打った。たき火とは手をかざすくらいの距離感が最適で、もっと暖まりたいからと欲を出して近づこうものなら、たちまち火傷を負ってしまう。いかに魅力的だからといって、近づきすぎてはいけない。たき火も人間も同じだ。

 ただ一方で、この歌の作中主体はどうも他者との心地よい距離感を楽しんでいるようには思えない。「取りにき」という言葉からは、後悔の念も感じられる。その気持ちも実によく分かる。大火傷を負うことは百も承知でたき火へと飛び込むように、我が身の破滅と引き換えにしてでも近づきたいと思うほど魅力的な他者は、しばしば現れてしまうからである。<三田>

ネプリ『MITASASA』第12号

ネットプリント『MITASASA』の第12号、配信開始しました!(~2020年2月11日)

今回のゲストは、門脇篤史さんです。

 

☆短歌

三田三郎「冬は寒いから」10首

笹川諒「フォルム」8首

門脇篤史「水音」10首

 

第12号ゲスト 門脇篤史さん

<プロフィール>
島根県生まれ。うたの日育ち。未来短歌会所属。too late同人。2019年に歌集『微風域』を上梓しました。短歌とごはんを作っています。MITASASAに呼んでいただき、2020年の目標はあらかた叶いました。

 

【出力方法】

セブンイレブン→40819125

ローソン他コンビニ→45QEQLPQQ7

A4・白黒・両面(短辺or横とじ)で、40円です。

 

どうぞよろしくお願いします。

『ぱんたれい』vol.1の感想・書評など

『ぱんたれい』vol.1にいただいたご感想や評をまとめました。有難うございます。まだまだ書店や通販で売っていますので、どうぞよろしくお願いします!

販売情報→『ぱんたれい』vol.1販売情報(随時更新) - Ryo Sasagawa's Blog

 

☆Web

 

岩尾淳子さん

「日々のクオリア」 https://sunagoya.com/tanka/?p=22438

工藤吉生さん

▼存在しない何かへの憧れ:{そのほか短歌の本読む 142} 『ぱんたれい vol.1』 ~あるいは強い打球を、ほか

小池正博さん

週刊「川柳時評」: 『蕪のなかの夜に』と『ぱんたれい』

週刊「川柳時評」: 2019年回顧(川柳篇)

鈴木智子さん

今日の一首 でも日々は相場を知らない露天商みたいな横顔をふと見せる/笹川諒『ぱんたれい』 兎に角「でも」から入ることに衝撃を覚える。もちろん前の歌と関連はない。いや、その実、新たに関係が生まれている|鈴木智子|note

とみいえひろこさん

笹川諒・三田三郎『ぱんたれい』vol.1|とみいえひろこ|note

西川すみれさん

MITASASA『ぱんたれい vol.1』|西川すみれ|note

山下翔さん

1首鑑賞338/365 - 凡フライ日記

1首鑑賞339/365 - 凡フライ日記

 

☆紙媒体

 

『現代短歌』2019年11月号 作品時評(岩尾淳子さん)

最近の活動まとめ(2020年)

最近の活動まとめ(2020年12月20日更新)

※2019年以前はこちら→最近の活動まとめ(2019年) - Ryo Sasagawa's Blog

 

☆短歌作品

・「サブマリン」10首(「ぱんたれい」vol.2)

・「ムーンライト・シャドウ」20首(「短歌人」2020年9月号)

・20代・30代会員競詠 10首(「短歌人」2020年8月号)

・「仮設の映画館」5首(『映画「タゴール・ソングス」応援企画』)

・「パス練習」13首(「七物語」2020)

・「とある帰省」15首[第19回髙瀬賞受賞作](「短歌人」2020年7月号)

・「草原」5首(「とり文庫」vol.10)

・口語短歌アンソロジー 1982-2019に1首掲載(「Sister On a Water」第3号)

・「原光」15首(「too late」2)

 

☆短歌関連文章

・エッセイ 「ファーストアルバム」(「うた新聞」2020年11月号)

・歌集評 松木秀『色の濃い川』(「青磁社通信」vol.31)

第三十一号 – 青磁社 seijisya

・「私が選んだベスト3」(「短歌人」2020年11月号)

・エッセイ 「パンデミックとわたしと詩歌」(「パンデミックとわたしと」)

古本屋は『普通』に開いているほうがいい(みつづみゆきこ)/パンデミックとわたしと詩歌(笹川諒)|パンデミックとわたしと|note

・「デジャヴュの心地よさ」[大橋弘『既視感製造機械』紹介文](「短歌人」2020年8月号)

・歌集評 近藤かすみ『花折断層』(「短歌人」2020年5月号)

・一首評 秋月祐一『この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく』(「MITASASA」増刊号 歌集を読む!編5)

MITASASA増刊号(歌集を読む!編5).pdf - Google ドライブ

・一首評 法橋ひらく『それはとても速くて永い』(「MITASASA」増刊号 歌集を読む!編4)

MITASASA増刊号(歌集を読む!編4).pdf - Google ドライブ

・一首評 御殿山みなみ『モモモノローグ』(「MITASASA」増刊号 歌集を読む!編3)

MITASASA増刊号(歌集を読む!編3).pdf - Google ドライブ

・一首評 三田三郎『もうちょっと生きる』(「MITASASA」増刊号 歌集を読む!編2)

MITASASA増刊号(歌集を読む!編2).pdf - Google ドライブ

・一首評 大橋弘『既視感製造機械』(「MITASASA」増刊号 歌集を読む!編)

MITASASA増刊号(歌集を読む!編).pdf - Google ドライブ

 

☆川柳作品

 

・「アップリケ」5句(「短夜」拡大版)

・毎週web句会入選句より10句掲載(『まいうぇぶ2 毎週web句会合同句集』)

・「トワイライト」10句(「川柳スパイラル」第8号)

・「涼しいキッチン」10句(『もりもとがにゃんを辞めた日』)

 

☆イベント、その他

・秋月祐一第二歌集『この巻尺ぜんぶ伸ばしてみようよと深夜の路上に連れてかれてく』(青磁社) 編集協力

・2月9日 暮田真名第一句集『補遺』批評会 推し句バトル発表者

1/19文学フリマ京都【し-14】MITASASA

1月19日に行われる、第四回文学フリマ京都に出店します。ブース名は「MITASASA」、ブース番号は【し-14】になります。

 

文フリ京都とは→第四回文学フリマ京都 (2020/01/19) | 文学フリマ

Webカタログ→MITASASA [第四回文学フリマ京都・詩歌|俳句・短歌・川柳] - 文学フリマWebカタログ+エントリー

 

【お品書き】

・同人誌『ぱんたれい』vol.1 500円

・三田三郎『もうちょっと生きる』 1000円

・望月遊馬『花火』※文フリ初売り 500円

・望月遊馬『もうあの森へはいかない』 2200円

 

※近藤かすみ『花折断層』、法橋ひらく『それはとても速くて永い』も少しだけ置いています!

小谷博泰『カシオペア便り』

小谷博泰さんの第十二歌集、『カシオペア便り』。私家版、2019年。

 

ベイルマンの映画だったか雨上がりの路地裏が見えただけの一コマ

 

映画の中の何ということはない、些細なシーン。しかし、そのシーンを主体がたまたま思い出したとき、人生という時間の中に同じような「とある映画を思い出しただけの一コマ」が、その瞬間から存在することになるのだ。

 

一両ごとに我がすわっているような 今過ぎて行く快速電車

 

日常生活の中で、ふいにパラレルな自己を意識する瞬間。この歌集に収録されている歌は、あとがきによると「現実詠」と「虚構詠」の二つに大きく分かれるらしい。「虚構詠」の連作では、SFやホラー等の様々なフィクションに基づく歌が登場する。この電車の歌は「現実詠」の歌だと思われるが、作者の物語世界への希求が垣間見える一首だと思った。

 

モゲモゲのプラネットに来て飛び回るこの女たぶんただものでない

 

「虚構詠」の連作の中の歌。「モゲモゲ」の語感がとりあえず面白いが、「モゲモゲのプラネット」が具体的にどのようなものかは前後の歌を読んでも、明確には分からない。「虚構詠」の連作の特徴として、舞台設定や世界観などの大枠はト書きのような歌によって示されるものの、物語のコアとなる部分はあまり言及されず、読み手が想像して補うための余白が作られている場合が多い。その部分を読者は自分なりに空想して楽しめば良いのだ。

 

桜の葉が色づきはじめ散りはじめこの景色には僕が見えない

 

景色が主体のことを見ることができないのは、桜の木には視覚器官がないので、当たり前のことだ。ただ、景色の方からは全く認知されていないにも関わらず、主体は同一の時間に、おそらく桜の木のとても近い場所に確かに存在している。そう考えると、この歌集の「虚構詠」で展開されるパラレルワールドのような世界も、ひょっとしたらどこかに実在するのかもしれない、という風な気がしてはこないだろうか。

 

逝くときのまぼろしとしてわがのぞむヒマラヤの青いケシの一輪

日に焼けた少女が去って坂道に濃き家のかげ遮断機下りる

ある時は五階の窓から風に舞う若き王女の羽蟻のわれか

宇宙一あたしはあわれな女だと泣いてる 目玉を手に転がして

青春が俺にあったか無かったかゆっくりゆっくり沖を行く船

赤とんぼあるいは僕の飛んでいて夏のなごりの花の小ささ