Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「ぱんたれい」同人

『MITASASA』第12号、相互評

MITASASA第12号の相互評を公開いたします。今回はメンバーの三田三郎・笹川諒に加え、門脇篤史さんをゲストにお迎えしています。

 

棒として駅前に立つ 体ってこんなに冷えていいものなのか

/三田三郎「冬は寒いから」

 

 寒空の下で屋外に立っていると驚くほど体は冷える。指や耳鼻などの露出している末端部分は感覚がなくなり、身体の中心までじわじわと冷えていく感覚がそこにはある。本歌で提示されているのは体が冷えている状況で、それは「こんなに冷えていいものなのか」という疑問形で提示される。そこにちいさく切実さのようなものが灯っていると思う。

 もちろん、この自問のような疑問形に対する答えとしては、「多分、大丈夫やで」が用意されていると思うのだけど、寒いのはつらいし、なにより、極寒→体温低下→死という一般的なイメージもあるので、やはりどこか切実さを感じてしまう。例えば、「こんなにも芯まで冷えて凍えるからだ」のような寒さの直接的な提示にくらべると、ほんとうにかすかにだけれど、自分の生に、あるいは死に触れたという手触りがこの歌には宿っていると思う。

 「体って」と意識と肉体を切り離しているような表現に、自己の体を物質として把握している印象が漂う。それは、初句の「棒として」にも響く把握だ。自分を物質として把握したときに、逆説的に触れることができる生の実感のようなものが、ここにはあるのかもしれない。<門脇>

 

こころの位置が微妙なときは夕暮れをコントラバスに喩えてみたら

/笹川諒「フォルム」

 

 こころの位置が微妙なときは、ある。嫌だとか、悲しいとか、嬉しいとか、そのようなはっきりと既存の感情を規定する言葉を持てないような心持ちで、それでいて、精神的にほんのりと閉塞しているような感じがするとき、それをこころの位置が微妙なときと呼ぶことができる、ような気がする。

 「こころの位置が微妙なとき」に対して提示されるのが、夕暮れをコントラバスに喩える行為だ。この比喩には不思議な納得感がある。夕暮れはバイオリンでもチェロでもなく、コントラバスに喩えるべきだという不思議な納得感。夜に向かって進んでいく「夕暮れ」に、音楽を根底で支えるコントラバスの音色はイメージとしてどこか響き合う。また、ともにサイズ的な、あるいは時間的な段階があり、(オクトバスのような規格外をのぞけば)両者ともに最後の段階だ。

 松木秀さんに「夕暮れと最後に書けばとりあえず短歌みたいに見えて夕暮れ」(『5メートルほどの果てしなさ』)という歌があるが、詩の中で、夕暮れという時間帯は様々なイメージを惹起する言葉だろう。ただ、松木さんの歌にあるように、「夕暮れ」という言葉を実感を持って把握して使用しているかと言えば、少々心許ない気がする。掲出歌におけるコントラバスのに喩える行為は、夕暮れを捉え直す行為ではないだろうか。そして、その行為は、定まらない心の位置を捉える行為に近いような気がする。

 私の解釈は心許ないものだけど、この歌を読み、コントラバスが背後に流れる夕暮れを思い浮かべるとき、私の中の何かが落ち着いていく気がする。<門脇>

 

納豆をかき混ぜながら聴いてゐるゲット・アップ・ルーシーとほきひかりよ

/門脇篤史「水音」

 

「ゲット・アップ・ルーシー」は、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTという日本のロックバンドの曲。歌詞は「ねぇルーシー 聞かせてよ/そこの世界の音」というようなルーシーへの呼びかけに対して、「黙りこむ 黙りこむ」のような拒絶や無反応といったディスコミュニケーションが繰り返される構造になっている。ルーシーはこの世から去ってしまった恋人かもしれないし、もっと単純に、届かない恋心を歌った失恋の歌かもしれない。いずれにせよ、想いが届かないことに対する断絶感が鋭く伝わってくる楽曲だ。

 連作「水音」は、光を直接的あるいは間接的に詠んだ歌が多く、十首目には、かつて自分が誰かから受けた「中傷」を光に喩えるという印象的な歌もある。では、掲出歌の「とほきひかり」とはどのようなものなのだろう。かつての恋人などを指すとも考えられるが、それよりも「ゲット・アップ・ルーシー」で歌われている喪失感や断絶感それ自体を、まるで光のように感じているような印象を受けた。それは、手元の納豆をかき混ぜる音によって途切れながら聞こえる「ゲット・アップ・ルーシー」の歌詞の、更にそのまた先に、主体が思い描く光が配置されているからだろうか。それはあまりに遠くかすかで、よくありがちな過去の恋愛への追想とは、少し性質が違う気がするのだ。<笹川>

 

枯れ枝のはぜるたき火に手をかざすごとくにひとと距離を取りにき

/門脇篤史「水音」

 

 何かはっきりとしたきっかけがあったわけではないが、ある時期から私は、親しい他者とも必ず一定の距離を保つよう強く心がけるようになった。それは決して全ての他者を拒絶するようになったというようなことではなく、心地よく感じる他者との距離感がかつてと変わっただけである。

 門脇さんのこの歌を読んで、他者との関係性における理想の姿はこれだと、思わず膝を打った。たき火とは手をかざすくらいの距離感が最適で、もっと暖まりたいからと欲を出して近づこうものなら、たちまち火傷を負ってしまう。いかに魅力的だからといって、近づきすぎてはいけない。たき火も人間も同じだ。

 ただ一方で、この歌の作中主体はどうも他者との心地よい距離感を楽しんでいるようには思えない。「取りにき」という言葉からは、後悔の念も感じられる。その気持ちも実によく分かる。大火傷を負うことは百も承知でたき火へと飛び込むように、我が身の破滅と引き換えにしてでも近づきたいと思うほど魅力的な他者は、しばしば現れてしまうからである。<三田>