Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『短歌人』2018年10月号の、好きな歌10首(会員欄)

少年が光線(ひかり)の中をよぎり来てわれにものいう双腕を垂り(北岡晃)

 

ひまわりの背丈こえたらあとはもう、ただ、もう、ひとりびとりの道途(鈴木杏龍)

 

出身を聞けば「火星」と真剣に答えるような男の寝顔(鈴掛真)

 

満ちてゆく今朝の木漏れ日葉脈を巡ればひかりいま夏の色(高良俊礼)

 

缶コーラおごってくれる父のいて夏しゅわしゅわと定型にあり(古賀大介)

 

蝉よ蝉、SF的な御茶ノ水。われ泣きぬれてぢつと手をみる(いなだ豆乃助)

 

フロアには大きな光の輪が回り曼荼羅のよう 僕らは踊る(空山徹平)

 

1ぴきとひとりの止まる道のうえ白くて太いひらがながある(相田奈緒

 

昼ならば青空だろう真っ黒な空にかざしている500円(山川創)

 

落ちてきたような雀がちゃんと立つ 曇り日の昼休みの路地に(山本まとも)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

三田三郎『もうちょっと生きる』

 昨日葉ね文庫でお会いした、三田三郎さんの第一歌集『もうちょっと生きる』を読んだ。

 

・1日を2万で買ってくれるなら余生を売ってはいさようなら

 

結句の「はいさようなら」に驚く。余生を一日二万円で売って、そのお金を何かに使おうという訳ではなく、ただ人生を終わらせるための何か些細なきっかけでもあれば、それに乗っかってしまうのに、という主体の切迫した希死念慮が読み取れる歌である。

 

・飛び降りる者にとっての天国はコンクリートの下のまだ下

・終電が行けば朝まで鮮血を浴びることなく眠れる線路

・ほろ酔いで窓辺に行くと危ないが素面で行くともっと危ない

 

この歌集における希死念慮は、死への甘やかな憧れのような表面的なものではなく、かなりのリアリティを伴って描かれる。自分が飛び降りた後のこと、電車にはねられた後のことまで明確にイメージされていて、「素面で行くともっと危ない」のような表現は、自死という行為について日頃から思いを巡らせていないとなかなか出てこない表現なのではないかと思う。ネガティブな感情ではあるのだけれど、このリアリティはこの歌集独自のものだ。

 

・ただ一つ信じるならばキャバクラの上に学習塾のあるビル

・鼻毛をも教えてくれる友人が教えてくれぬ数々のこと

・こっそりとさよならを言う離れると水の流れる便器のように

 

三田さんの短歌の更なる特徴として、「キャバクラ」「鼻毛」「便器」といった、一見露悪的な単語を使った歌に、とても存在感がある。キャバクラや鼻毛の歌では、偽善やうわべではない「本当のこと」を切に求める主体の清らかさが、露悪的な単語から逆照射されることで、かえって際立っている。

 

・録画した野球中継巻き戻し未知の病気の自然治癒待つ

・空き瓶の奥に新たな瓶が待ち修行のように飲酒は続く

・教室で喋ると教室に喋らされてる気がしない? しない、ああそう

 

歌集タイトルが『もうちょっと生きる』ということもあり、歌集全体を通してどうしても生/死が主題の作品が多いが、主題とは少し外れた、上記のような面白い作品も収録されている。歌集が一ページにつき一首組みになっていることからもわかるように、三田さんの短歌は一首の独立性や密度がきわめて高い。これから三田さんがどういう主題やテーマで短歌を作られていくのかはわからないが、「仕方なく電車を降りた先」できっと生まれる、素敵な短歌を楽しみにしていようと思う。

 

・山手線十周しても人生は終わらないから渋谷で降りる

 

 

もうちょっと生きる―歌集

もうちょっと生きる―歌集

 

川本浩美『起伏と遠景』

かつて「短歌人」に所属されていた川本浩美さんの遺歌集、『起伏と遠景』を読んだ。あとがきによると、現在僕がお世話になっている関西歌会の中心的なメンバーでもあったとのことである。歌集全体に独特の寂寥感が漂っていて、大阪の街や自分自身に関する事柄をとても丹念に描かれている。デザイナーというお仕事とも関係があると思われるが、絵画的な把握に基づいて作られた短歌も多くあり、印象深かった。

 

イルミネーションくまなく飾る一戸建て満艦飾の艦はさすらふ

 

一戸建ての家に住む家族という、一見安定した共同体にひそんでいる危うさや寄る辺のなさが、「さすらふ」という語に出ている。「くまなく飾る」もそう考えると、どこか病的な行為に思えてくる。

 

ゆきどまる路地の奥にてほのかなる門は門灯に照らされてあり

 

川本さんはよく散歩をされる方だったのだろう。目的地もなく気の向くままに散歩をしていると、思いも寄らぬ所で行き止まりに突き当たった。しかし、行き止まりの奥にある門は、あたたかな灯りに照らされているのだった。神のささやかな恩寵のような、優しい歌。

 

鉄塔の一基あかねにかがよへる勁き構図に寄りゆきにける

 

夕焼けを背にした鉄塔が、一枚の絵画のように見えた。その景の構図のあまりの迫力に、思わず鉄塔へと足が吸い寄せられる。人間と芸術とのすごく根源的な部分での関係性について詠っているように思う。

 

曇り日の象を見たいといふ願ひあはき願ひはかなひがたしも

 

この象は天王寺動物園の象だろうか。たまたまその日の天気は曇りで、何となく象が見たいと思っただけなのだけれど、たまたま何か原因があって、それが叶わなかった。それだけなのだけれど、こういう些細な偶然さえもどこか必然であるかのような、運命論的な視点を感じた。

 

さまざまのテントのなかにタイガースの旗を掲げしテントもありぬ

 

阪神大震災を詠んだ一連より。仮設テントで暮らす人たちのテントの中に、阪神タイガースの旗を掲げているテントがあった、という歌。本当に困難な時に心の拠所となるものが信仰なのだとしたら、彼らにとって信仰の対象は神でも仏でもなく、阪神タイガースなのである。極限の状況になって初めて見えてくるものに対する鋭い観察、また一方で、阪神タイガースを心から愛する関西人への主体の愛着も垣間見える歌である。 

起伏と遠景―川本浩美歌集

起伏と遠景―川本浩美歌集

 

イェイツの詩集より

イェイツの詩集をぱらぱらと読んでいて、印象的な一連があったので備忘録として(日本語訳は自信ないですが笑)。それにしても、台風があまりに激しいので窓が割れないか心配。。

 

W.B.Yeatsの"Among School Children"より第8連(最終連)。

 

Labour is blossoming or dancing where

The body is not bruised to pleasure soul,

Nor beauty born out of its own despair,

Nor blear-eyed wisdom out of midnight oil.

O chestnut-tree, great-rooted blossomer,

Are you the leaf, the blossom or the bole?

O body swayed to music, O brightening glance,

How can we know the dancer from the dance?

 

(拙訳)

われわれの営みが咲き誇り、自由に踊っているような場所では

決して魂を慰めるために身体が傷ついたり

ひとりひとりの絶望から美が生まれたり

夜遅くまで灯油をともしてかすんだ目に、英知が映ることはないのだ

橡の木よ、深く根を張り花を咲かせるおまえは

葉なのか、花なのか、それとも幹なのか

音楽に身体は揺れ、眼差しは光を帯びるというのに

どうして踊り手と踊りを分かつことなどできるというのだろうか

 

※英文は高松雄一編『対訳イェイツ詩集』(岩波書店、2009年)より。

『短歌人』2018年9月号の、好きな歌10首(会員欄)

だれもが舌をうまく収めてくちびるを閉じている はつなつのバス停(鈴木杏龍)

 

とうめいな千の小鬼が駆け抜けた青田よこはれた今日の前触れ(岡本はな)

 

慰めは言わなくていい絵葉書のマトリョーシカになみだを描く(たかだ牛道)

 

偶然が重なっていく 低速で縁石に乗り上げるタクシー(相田奈緒

 

りゅうたってよばれた君は戦地にいるかのごとく帽子が似合っているよ(佐々木紬)

 

メモを手にたった一人を探すとき港の匂いで満ちる空港(佐藤ゆうこ

 

傘はある(秋田は自殺率一位)わたしには傘はある傘はある(冨樫由美子)

 

ユルスナールの靴』を片手に歩きます歩いても人ばかりの街を(葉山健介)

 

いい方の魔女から届くパンプキン・パイの匂ひが猫を惑はす(いなだ豆乃助)

 

ATMの画面を拭くのは警備員ぞうきんいちまいを握りしめて(古賀たかえ)

 

 

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『短歌人』2018年8月号の、好きな歌10首(会員欄)

ろくがつのいきのしやすい肺胞をきしませて 誰 まっていたのは(鈴木杏龍)

 

前後左右を白きタイルに囲まれてわれの思考は四角くなりぬ(太田青磁

 

炊飯器の予約ボタンが点りおりいいかもしれぬ独りっきりは(小原祥子)

 

これの世の父のかぶりしソフト帽ひそやかにあり通夜の部屋隅(岡本はな)

 

ゆっくりと過去の景色に染まりゆく意識よ海の向こうも夏か(高良俊礼)

 

雨の日は静かに家にをるものと母は応へぬ傘なきを問へば(たかだ牛道)

 

かふかふとふやけた笑いまだ軽い名刺入れが手に収まっている(金子りさ)

 

雨垂れのように読点 『草枕岩波文庫、十一頁(小笠原啓太)

 

助けてと言うにも力が要るんだよ とび色の目で友はつぶやく(空山徹平)

 

悲しみがいくつか心に湧きはじめそれに見合った思い出を呼ぶ(千葉みずほ)

 

 

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岩尾淳子『岸』

岩尾淳子さんの第二歌集『岸』を読んだ。神戸の海岸沿いの風景や、実生活を詠んだ歌をベースにしながらも、繊細で詩的な表現にたびたびはっとさせられ、作者のバランス感覚の良さのようなものを感じつつ読み進んだ。

 

・帆をたたむように日暮れの教室に残されている世界史図説

 

どうやら作者は教師をしているようだ。「帆」という言葉から、世界史で学習するガレー船と教室のカーテンのイメージが浮かび、重なり合う。厚い図説独特の、ページのめくりにくい感じは「たたむ」と表現され、過不足のない美しい修辞が印象深い。

 

・六月の青葉を透けてくるひかり素肌のように硯をあらう

 

瑞々しい青葉を透過した光を浴びて、本来は硬いはずの硯が、まるで柔らかい素肌のように感じられる、という歌。作者の感覚の鋭さが際立つ。

 

・日に焼けてすこし汚れた酒蔵のけっこう多い浜の町ゆく

 

あとがきに「最近、神戸の街歩きを始めた」とある。「けっこう多い」がポイント。主観を排して、町の様子をつぶさに観察している様子が伝わってくる。

 

・とけそうな中州の縁にこの世しか知るはずもない水どりの群れ

 

歌集の中には、<秋天にエレベーターは吊られいて記憶のように晩年は見ゆ>という歌もある。実生活に根ざした歌を詠みつつも、それは此岸と彼岸、現在・過去・未来といった幅のある総体のあくまで一部でしかないという巨視的な視点を、作者は忘れてはいない。

 

・夏帽子かぶり直せばあこがれのように広がりゆく川の幅

 

個人的にはこのような歌に特に惹かれた。繊細な把握にこのような向日性が加わった時、作者の持っている美質が余すことなく読み手へと手渡されるような気がする。そんなことをふと感じた。

 

その他にも特に印象に残った歌を。

 

・遠き人のかたわらにいる心地してしばらく坐る睡蓮のそば

・灯のともる操車場へと戻り来るバスは静かなバスへ寄りゆく

・信号のみどりがきれいに見えている夕べあかるい道を帰ろう

・空を見て傘をひろげる青年の息しろければ駅ふくらめり

・いつかあの岬へ行こうと君はまた思い出みたいに「いつか」と告げる

 

今回、岩尾さんの第一歌集である『眠らない島』も合わせて読んだが、この二冊の歌集は実はかなり作風が異なっている。以下『眠らない島』より。

 

・はなたばのような大きな空洞に包まれてゆく ひどく眠たい

ゆでたまごの殻がきれいにむけた朝 あたらしいかなしみはしずかだ

・こころなら聞こえているというように向きあったまま海鳥たちは

・見えなくてなお近づいてくるものを拒むのだろう水門のひと

 

まるで夢の中のような不思議な歌が続き、一読しただけではなかなか理解が及ばない歌も多かった。掲出した上記四首だけ見ても、すごく美しいと感じた歌もあれば、最後までどう読めば良いのか分からない歌もあった。

 

『眠らない島』と『岸』、どちらが好みかはきっと大きく分かれ、議論を呼ぶところではないかと思うけれど、僕は『岸』のバランス感覚、そして繊細な感覚の中にいつも明るさが見える美質を、作者の作風の進化と捉えて『岸』に一票を投じたい。