Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

「手に花を持てば喝采」10首

手に花を持てば喝采   笹川諒

 

よくできたかなしみのよう雨止みを待つバス停で語るマティスは 

 

音声が急に途切れる 耳鳴りの音はたまごっちが死ぬ音だ

 

きっと覚えておけると思うアラベスクいつか壊れてゆく体ごと

 

星きれい あなたは知らないだろうけどあれなら神々の自爆テロ

 

たとえば夜が生徒のように慎ましく麦茶を飲んでいる いや僕が

 

(海沿いを歩くシスター)それからを僕は幼い僕と歩いた

 

舟旅と思えば舟の詩が書けることだよ、いつも感謝するのは

 

手に花を持てば喝采(くれぐれもあなたの比喩が割れないように)

 

パラフィン紙分けあうように冬を待つこころに敵を置かない人と

 

歯を磨くたびにあなたを発つ夜汽車その一両を思うのでした

 

(「ネプリ・トライアングル(シーズン3)」第1回掲載)

『MITASASA』第3号、相互評

 

三田三郎さん、ゲストの有村桔梗さんと発行したネットプリント『MITASASA』第3号、2月25日月曜日までの配信です。ぜひお読みいただけますと幸いです。すでに出力していただいた方は有難うございます!

 

さて、恒例の相互評が準備できたので公開します。よろしければこちらもご覧ください!

 

「人間は辛いときこそ頑張れる」などと意味不明な供述を/三田三郎

 

上の句、下の句とも日常生活でたびたび耳にする言い回しですね。よく考えれば根拠のない、根性論的な考えであるところの「人間は~」の発話者は別にいて、その言い分に対して「意味不明」と感じている人なのでしょう。発話者はその言葉によって、どこかその人を納得させようとしているように思われる雰囲気もあり、このフォーマットのシニカルさがよく効いている一首だと思いました。<有村>

 

半分はせかいの涙 過ぎるべきところはちゃんと過ぎたのだから/笹川諒

 

この歌における語り手は、世界と対峙して闘うわけではなく、かといって自分の周辺領域に閉じ籠もるわけでもない。どこからか用意された「過ぎるべきところ」を安直な冷笑的態度で否定するのではなく、そこを「ちゃんと過ぎた」ことを自らの矜持とすることによって、決して開き直りではない誠実な態度で、自己と世界とが折り合う地点を模索する。そして最終的に、仲間とは言えないけれども敵とも言えない、まさに「せかい」と表記するのが相応しい、腐れ縁の幼馴染のような関係で結ばれた世界との、どこか照れくさくも決然とした和解が、「涙」の共有のうちに成就するのである。<三田>

 

感情の飛距離を思ふ 雪の上(へ)にあかき花びら交じりたる朝/有村桔梗

 

花びらはどこから来たのだろう。「飛距離を思ふ」と言っているので、目の前の視界に赤い花はなく、どこか遠いところから飛んできたのではないか。小さく脆い花びらでさえ、思いがけないくらい遠くまで飛んでいくこともある。「感情」としか書かれていないけれど、「あかき花びら」は誰かを想う恋心を連想させる。自分の気持ちは相手には伝わってはいないと思い込んでいたけれど、遠くから来た赤い花びらを見て、一瞬、もしかしたら自分の想いは伝わっている(いた)のかもしれないと思う。けれどもすぐに、やっぱりそんなはずなんてない、と自分で自分を諫めるのだ。そういう心情の揺らぎが、「感情の飛距離を思ふ」という表現からは感じられる。<笹川> 

ネプリ『MITASASA』第3号

短歌ネットプリント『MITASASA』の第3号が出来ました!

今回は有村桔梗さんをゲストにお迎えしています。

 

・三田三郎「ワイドショーだよ人生は」

・笹川諒「半分はせかいの涙」

・有村桔梗「花の名は」

 

の各10首です。 お読みいただけますと幸いです。

 

【出力方法】

セブンイレブン →予約番号 41265231

ローソン他コンビニ →ユーザー番号 45QEQLPQQ7

A4、白黒、両面(短辺とじ)、40円です。よろしくお願いします!

 

配信は2月25日月曜日までになります。

『短歌人』2019年2月号の、好きな歌10首(会員欄)

秋深く明朝体のこころもてクラリネットの音色を聴けり(冨樫由美子)

 

道路工事の脇の花壇の花のうえ上着がのっているたたまれて(浪江まき子)

 

合格も赤点もない日々のため今夜はカレーライスをつくる(葉山健介)

 

皆が皆じぶんは悪くないという顔をならべた黄菊の黄色(川村健二)

 

これはどこの枯野に落ちた芙蓉花 世界が消えゆくまでを眺むる(高良俊礼)

 

影響を受ける相手を選びながらポインセチアに金色の紐(相田奈緒

 

コピー機の光が体に悪そうで浴びようとする新入社員(空山徹平)

 

朝日さす石には石の高さありわが影もまた等しく伸びる(安野文麿)

 

冬の日に飴玉が固くなるようにあなたの隣で肩をすぼめる(髙橋小径)

 

手術中にみる夢を録画してみたい映画にして公開してやりたい(古賀たかえ)

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

【寄稿】「夏と秋」マガジン第7号

秋月祐一さんとこうさき初夏さんが発行されているWebマガジン、「夏と秋」マガジンの第7号に連作8首を寄稿しました。秋月さんとこうさきさんから、ダブル連作評もいただいております!お読みいただけますと幸いです。

 

以下のリンクからご覧いただけます。楽しいコンテンツが満載ですので、バックナンバーもぜひ。

「夏と秋」マガジン 第7号|夏と秋|note

大橋弘『used』

大橋弘さんの第二歌集『used』を読みました。普段短歌をやっていない人が読んでも面白く、短歌をガッツリやっている人にとっても新鮮な、素敵な歌集です。

 

イヤ。イヤですこんな逆さまの地上を叩く夏の陽射しは

 

夏の陽射しが暑い、イヤだ、と思っていたら、初句の三音欠落の間に、主体の意識は自分を今まさに苦しめている陽射しの方へとスライドする。陽射しの立場からしても、逆さまの地上を叩くのはどうやら気が進まないらしい。視点の切り替えがとても面白い。それにしても陽射しは、陽射しの側から見た地上が実際の逆さまであることを、なぜ知っているのだろう……。

 

眠くなる薬ありますまた今日も結果を出せと言われるきみに

 

結果を出そうとするなら、栄養ドリンクやレッドブルを飲んでかじりつくように頑張らければならないところだ。本来なら、逆に眠気を覚ますための薬が必要な場面。そんな時どこからともなく、「眠くなる薬あります」という怪しげな声が。「薬」と「あります」の間に助詞が省略されていることで片言な感じが出て、怪しさが増幅されている。

 

今日ひとひハイビスカスのお茶となりネクタイ締めて外回りした

 

大橋さんの真骨頂、変身の歌の一つ。もちろん実際にハイビスカスのお茶になったのではなく、まるでハイビスカスのお茶になった気分で、という意味だろう。こういった歌の場合、「ハイビスカスのお茶」が他の語と入れ替え可能か、ということが歌会では議論になることが多いけれど、ここでの「ハイビスカスのお茶」の喩は絶妙だ。ハイビスカスの垢抜けた、すこしよそ行きのイメージは「ネクタイ締めて外回り」にフィットし、訪問先へ行くごとに「お茶」ばかり飲んでいた一日だったのではいかと、想像が膨らむ。

 

片言で語りかけるよ誰のものかもうわからない置き傘たちが

 

何とも不気味な歌。置き忘れられてからしばらくが経ち、持ち主はもう誰だか分からない置き傘たち。このままでは、いつか適当なタイミングで処分される運命にある。傘の立場からすると、誰かに持ち帰って使ってもらわない限り、傘としての本分を全うすることができないのだ。「片言」がとても切実。

 

とらわれているけどいがいにじゆうなのひらひら一首かきつけながら

 

変幻自在な口語で、まるで言葉そのものと戯れているかのような大橋さんの歌には、難解なものも多い。この歌はそのような不思議な歌群を読み解く上でのヒントになる気がする。大橋さんの歌における現実の徹底した異化は、日常に「とらわれている」ことから脱出するための糸口であり、その想像の世界を「ひらひら」と自由に飛翔するための翼が、短歌という器なのかもしれない。

 

あ、昔。海だったのねこの町は道理で猫が振り向くはずよ

 

枝分かれしてゆく不安そのすべてに軽い帽子を被せましょうよ

 

湯冷めする。ちょいと鷗になるための一分二分を惜しむ男は

 

井村屋のあんまん様も否定せりいつか短歌が滅びることを

 

冬去らず。みんながみんなヒヨコならいよいよ冬は去ろうとしない

used―大橋弘歌集

used―大橋弘歌集

 

穂村弘『水中翼船炎上中』

 穂村弘さんの四つ目の歌集となる『水中翼船炎上中』を、最近になってやっと読みました。以下、特に気になった歌とその感想です。

 

なんだろうときどきこれがやってくる互いの干支をたずねる時間

 

たとえば「どこの出身?」とか「血液型は?」といった質問であれば、たとえまだ親しくなっていない相手と話す場合でも、会話の話題を広げるきっかけとなるだろう。しかし、干支を尋ねても、そこから次々と会話が広がる可能性は決して高くはない。ちなみに僕は他人に干支を訊くことはまずないのだけれど、他人から干支を尋ねられると、その生真面目さ(とりあえずプロフィールの一つとして干支も確認しておこう)や、不器用さ(干支を話題にしたら会話が続くかもしれない…?)を想像して、何だか好感を持ってしまう。効率性ばかりが求められる社会において、お互いの干支を確認する時間は、豊かな時間であると言えるのかもしれない。

 

もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水

 

なぜわれわれは目覚まし時計やアラームがなる直前に目を覚ますことが多いのだろう、といつも思っている。何か本能的な予知能力が働いている感じがしてスリリングである。そのような本能的な何かが働いているかどうかはともかく、目覚まし時計がもうすぐ鳴りそうな瞬間というのは、ものすごい緊迫感がある。一秒一秒の時間がまるで目に見えそうなくらい張り詰めている中で飲む、水。ここは牛乳とかコーヒーではダメで、味のない水にさえ、その緊迫感によって何らかの味の変化が起こり得るのではないかと思った、という主体のリアルな感覚が伝わってくる歌である。

 

おおみそかしぼりにしぼったチューブからでかけた歯磨き粉がひっこんだ

 

一年の中で大晦日と元旦は特別な日であるという感覚はもちろん今もあるけれど、子どもの頃のその感覚はとても強いものだった。作者によるとそれは、「歯磨き粉が出かけたけれど引っ込んだのは、全てが終わり次の一年がまた始まるのを待つための日である大晦日という特別な一日の持っている、得体のしれない大いなる力によるものだ」と思ってしまっても不思議ではないくらい、特別なものだったということである。大晦日には歯磨き粉は全て空になっていなければいけないし、もし仮にチューブから出てくるのだとしたら、また来年になってからにしてね、ということなのだ。

 

ネクターの細いカンカン手に持って海をみている子供の人は 

 

ネクターの細い缶のジュースは、たしかピーチ味とかフルーツミックス味だったような気がする。今では細い缶自体を見なくなってしまったので、これは実際の風景ではなく、回想の中の景だと思う。「子供の人」という表現に作者の子供時代への憧憬が凝縮されている。普通「花火は大人の人と一緒にやりましょう」とか、「大人の人」という言い方はするが、「子供の人」という言い方はしない。かつて子供だった頃には遠く頼れる存在だった「大人の人」に自らがいざなってみると、ネクターの細い缶を手に持って眼前の海に無限の未来を思い描く「子供の人」は、はるか遠くの手が届かない、魅力的な存在に思えるのである。

 

海に投げられた指環を呑み込んだイソギンチャクが愛を覚える

 

海に指環が投げられたということは、一つの愛が破局を迎えたのだろう。本来なら指環は海に捨てられた時点で、その道具としての機能(愛情のあかし)は消滅し、ただの金属でしかなくなる。しかし、それをイソギンチャクが呑み込むという奇跡が起こることで、指環を捨てた人の全く関知しない海の中で、愛が芽生えるのだ。歌集の一番最後に置かれたこの童話的な歌には、機能性や効率性、さまざまな利害関係と不可分の現代社会の中で、こういうささやかな奇跡のような事が、自分の知らないところでたくさん起こっていたらいいな、という作者の願いが込められているのではないだろうか。

 

描きかけのゼブラゾーンに立ち止まり笑顔のような表情をする

「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋

三十五歳までならあなたの背は伸びるマイクロフォンが叫ぶ夕映 

胡桃割り人形同士すれちがう胡桃割り尽くされたる世界

海からの風きらめけば逆立ちのケチャップ逆立ちのマスタード

水中翼船炎上中

水中翼船炎上中