三田三郎『鬼と踊る』リレー推薦文
第三回:笹川諒「第二歌集での進化」
1日を2万で買ってくれるなら余生を売ってはいさようなら
足痛いふりして歩く足痛い方が健康なような気がして
ほろ酔いで窓辺に行くと危ないが素面で行くともっと危ない
第一歌集の『もうちょっと生きる』(風詠社、2018)から三首引いた。自虐を基点にした奇抜な発想や酒の歌の多さといった特徴は、今回の第二歌集『鬼と踊る』へそのまま引き継がれている。しかし、『もうちょっと生きる』というタイトルの通り、第一歌集での作者の関心は目先の生/死にすごくフォーカスしていて、笑いながら面白く読める一方、危なっかしくてハラハラしてしまう部分もあった。
パーティーで失言をした大臣のその時はまだ楽しげな顔
あなたとは民事・刑事の双方で最高裁まで愛し合いたい
極限まで抽象化された父さんが換気扇から吹き込んでくる
『鬼と踊る』から三首。今回の歌集では、「他者」の登場回数が前作と比べるとかなり増えていて、一気に作者の視界が開けたような印象を受けた。一首目は「ワイドショーだよ人生は」、二首目は「禁断の恋」、三首目は「故郷へ」という連作の中の歌。三田作品のメインテーマといえる人生、労働、飲酒に加え、社会、恋愛、家族といった、より多様な題材から歌を作ろうという姿勢を感じる。
題材の広がりと呼応するように、短歌の修辞にも新たな展開がある。
泥棒に入られたなら警察を呼ぶ前に洗うべき皿がある
どれだけ汚れた皿をため込んでいるんだ、というツッコミと共に面白く読めるけれど、それで終わりの歌ではない。「泥棒」「警察」「洗う」という言葉の連なりから、「足を洗う」という慣用句がサブリミナル的に浮かび上がる。これに気付くと、洗う必要があるのはあくまで皿であるはずなのに、それとは別に、何か警察に見つかると大変な秘密をこの人は抱えているのではないか、という読みが錯視のようなかたちで見えてくる。
エレベーターの扉が閉まるまではお辞儀そのあとはふくらはぎのストレッチ
三句目での切れが、エレベーターが閉まる瞬間をイメージさせる。そして下句は、ストレッチによって伸ばされるふくらはぎ同様、字余りによって引き伸ばされている。歌の内容と韻律が緊密にリンクしている一首だ。
なぜここは歯医者ばかりになったのと母は焦土を歩くみたいに
「焦土を歩くみたいに」という表現に驚く。かかりつけの歯科医院がひとつあれば、それ以外の歯科医院に日常生活で関わることはまずない。自分の役に立たない施設ばかりが増える街の現状の空疎さを「焦土」と言っているわけだけれど、この言葉は少し特殊で、第二次世界大戦後の日本の惨状をどうしても想起させる。したがって、この歌は歯科医院の増加という時間経過による都市の発展に対し、それが不毛な発展であるばかりか、時間的に逆のベクトルの動き(都市の退化)であることを喩の力によって鮮やかに告発しているのだ。
単に面白く、笑える作品でいいのであれば、別にわざわざ短歌でやらなくても、漫画やお笑いなど、他の表現方法でも十分実現可能だろう。けれど、これらの修辞の優れた歌を見ていくと、三田さんがいかに短歌というジャンルでしか踏み込めない領域で勝負しているかということがわかるだろう。「もうちょっと生き」てみた結果、「鬼と踊る」という驚愕の結論(?)に行き着いた三田さんの新たな一冊、ぜひ多くの人に読んでほしいと思う。
著者プロフィール:
笹川 諒(ささがわ・りょう)
歌集『水の聖歌隊』(2021年、書肆侃侃房)。