Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『短歌人』2018年8月号の、好きな歌10首(会員欄)

ろくがつのいきのしやすい肺胞をきしませて 誰 まっていたのは(鈴木杏龍)

 

前後左右を白きタイルに囲まれてわれの思考は四角くなりぬ(太田青磁

 

炊飯器の予約ボタンが点りおりいいかもしれぬ独りっきりは(小原祥子)

 

これの世の父のかぶりしソフト帽ひそやかにあり通夜の部屋隅(岡本はな)

 

ゆっくりと過去の景色に染まりゆく意識よ海の向こうも夏か(高良俊礼)

 

雨の日は静かに家にをるものと母は応へぬ傘なきを問へば(たかだ牛道)

 

かふかふとふやけた笑いまだ軽い名刺入れが手に収まっている(金子りさ)

 

雨垂れのように読点 『草枕岩波文庫、十一頁(小笠原啓太)

 

助けてと言うにも力が要るんだよ とび色の目で友はつぶやく(空山徹平)

 

悲しみがいくつか心に湧きはじめそれに見合った思い出を呼ぶ(千葉みずほ)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

岩尾淳子『岸』

岩尾淳子さんの第二歌集『岸』を読んだ。神戸の海岸沿いの風景や、実生活を詠んだ歌をベースにしながらも、繊細で詩的な表現にたびたびはっとさせられ、作者のバランス感覚の良さのようなものを感じつつ読み進んだ。

 

・帆をたたむように日暮れの教室に残されている世界史図説

 

どうやら作者は教師をしているようだ。「帆」という言葉から、世界史で学習するガレー船と教室のカーテンのイメージが浮かび、重なり合う。厚い図説独特の、ページのめくりにくい感じは「たたむ」と表現され、過不足のない美しい修辞が印象深い。

 

・六月の青葉を透けてくるひかり素肌のように硯をあらう

 

瑞々しい青葉を透過した光を浴びて、本来は硬いはずの硯が、まるで柔らかい素肌のように感じられる、という歌。作者の感覚の鋭さが際立つ。

 

・日に焼けてすこし汚れた酒蔵のけっこう多い浜の町ゆく

 

あとがきに「最近、神戸の街歩きを始めた」とある。「けっこう多い」がポイント。主観を排して、町の様子をつぶさに観察している様子が伝わってくる。

 

・とけそうな中州の縁にこの世しか知るはずもない水どりの群れ

 

歌集の中には、<秋天にエレベーターは吊られいて記憶のように晩年は見ゆ>という歌もある。実生活に根ざした歌を詠みつつも、それは此岸と彼岸、現在・過去・未来といった幅のある総体のあくまで一部でしかないという巨視的な視点を、作者は忘れてはいない。

 

・夏帽子かぶり直せばあこがれのように広がりゆく川の幅

 

個人的にはこのような歌に特に惹かれた。繊細な把握にこのような向日性が加わった時、作者の持っている美質が余すことなく読み手へと手渡されるような気がする。そんなことをふと感じた。

 

その他にも特に印象に残った歌を。

 

・遠き人のかたわらにいる心地してしばらく坐る睡蓮のそば

・灯のともる操車場へと戻り来るバスは静かなバスへ寄りゆく

・信号のみどりがきれいに見えている夕べあかるい道を帰ろう

・空を見て傘をひろげる青年の息しろければ駅ふくらめり

・いつかあの岬へ行こうと君はまた思い出みたいに「いつか」と告げる

 

今回、岩尾さんの第一歌集である『眠らない島』も合わせて読んだが、この二冊の歌集は実はかなり作風が異なっている。以下『眠らない島』より。

 

・はなたばのような大きな空洞に包まれてゆく ひどく眠たい

ゆでたまごの殻がきれいにむけた朝 あたらしいかなしみはしずかだ

・こころなら聞こえているというように向きあったまま海鳥たちは

・見えなくてなお近づいてくるものを拒むのだろう水門のひと

 

まるで夢の中のような不思議な歌が続き、一読しただけではなかなか理解が及ばない歌も多かった。掲出した上記四首だけ見ても、すごく美しいと感じた歌もあれば、最後までどう読めば良いのか分からない歌もあった。

 

『眠らない島』と『岸』、どちらが好みかはきっと大きく分かれ、議論を呼ぶところではないかと思うけれど、僕は『岸』のバランス感覚、そして繊細な感覚の中にいつも明るさが見える美質を、作者の作風の進化と捉えて『岸』に一票を投じたい。

『短歌人』2018年20代・30代会員競詠から好きな歌

手をつなぎゆつくり進む子とふたり紋白蝶に追ひ越されをり(桃生苑子

 

考えの差し出し方のうつくしいあなたの真似で五月を抜ける(相田奈緒

 

犬をイヌ用キャリーで運ぶ人がいていつもより強くつり革を持つ(浪江まき子)

 

乳酸菌一億個 個? 個だそうです 一億個、二個買ってみますか(山本まとも) 

 

丹頂鶴の美しいこと折れそうな足を見てたら恐ろしくなる(佐々木あき)

 

たったいま舐めたばかりの濡れた毛の質感こそを猫と呼ぶべし(有朋さやか)

 

一人なら自然な笑いができるのにどうして外ではできぬのだろう(上村駿介)

 

どこで覚えたか分からぬが座っている私の肩を優しくさする(笠原宏美)

 

図図算音体国 明日の時間割吟じつつ子がランドセル閉づ(河村奈美江)

 

ra ra ru あなたが失われた部屋の冷たい床の体育座り(北城椿貴)

 

アパートの植え込みにさっと入りこむハクビシンを見た 先日も(小玉春歌)

 

流されていけば何かが見つかると抱かれたままで空(くう)をまさぐる(笹渕静香)

 

花束はちゃんと綺麗だ貯めていたTポイントで注文しても(鈴掛真)

 

背表紙に指を掛ければ夏雲がわたしの奥で湧きたつ気配(葉山健介)

 

にび色の空を押し上げ鼓門金沢駅は”まつり”の前夜(松村翔太)

 

親兄弟かれにも言えぬことごとを引き受けくれる歌ぞいとしき(真中北辰)

 

十七の頃に必ず頼んでたコスモドリアを今も食べてる?(古賀たかえ)

 

せせらぎはひとすじの楽器であった。楽譜は書いたそばから燃えた。(鈴木秋馬)

 

老犬と老人がまだあたたかい焼き印のように連れ立ってゆく(大平千賀)

 

海底を散歩している錯覚をそのままにして駅を目指した(天野慶

 

際限のあるものとして美しく就活生が日傘をさして(中井守恵)

 

 

それぞれの作者の方の、特に好きな一首です!

兵庫ユカ『七月の心臓』

兵庫ユカさんの短歌は『桜前線開架宣言』で印象に残っていて、いつか読みたいなと思っていた。先日ふと歌集の入手方法を調べてみると、販売は終了、国内でも所蔵している図書館が一館しかない(国立国会図書館にもない)という状況だったので、急いで地元の図書館で取り寄せを申し込んだ。

 

※マニアックな話になるけれど、一館しか所蔵がないということはその図書館で除籍されてしまうと(国立国会図書館のように資料の保存を主目的としない図書館の場合、貸出回数が少ない本は廃棄される場合がある)、もう後は個人的に入手する方法を探すしかなくなってしまう。もし地元の図書館を通じてそういう資料を取り寄せて利用する場合、その本の利用実績にもなるので、その本自体がその後除籍されにくくなるというメリットもある。ちなみに、現在『七月の心臓』の所蔵が確認できたのは日本大学文理学部図書館のみ。「歌葉」の歌集は国立国会図書館に入っていないものが多いので、図書館を通じた入手が難しい傾向にある。

CiNii 図書 - 七月の心臓

 

 

・明日風をつくる機械をオフにする 必要ならば求めるだろう

 

風は何の比喩だろう。無意識のうちに何かに流されてしまっている自分を、一旦フラットな位置からやり直したいという、宣言の歌だと思った。兵庫さんの代表歌<でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める>にも通じるものを感じる。

 

 

・一羽ずつ立つ白い鳥真っ白い鳥せかいいちさみしい点呼

 

幻想的で、かつ、世界の終わりのような荒涼とした場面が思い浮かぶ。三句目と四句目の「真っ白い鳥」の句跨がりが、声に出すと「真っ白い」と「鳥」の間に微妙なポーズを生んで、さみしさがより増幅される気がする。

 

 

・死んだ海 わたしが揺らす目薬の わたしも死んだ海なのだろう

 

目薬の液体を目に浮かべたまま、揺らしてみる。そしてそれと同時に、自分の体全身も実は水を含んで揺れているのだということに気付く。その思考というか認知のプロセスが、文体からリアルに伝わってくる歌。

 

 

・飛び散った鱗を流すキッチンにだんだらだんと満ちる水音

 

水がステンレスのシンクに落ちるときの音のオノマトペ、「だんだらだん」。すごい。調理された魚の残骸である鱗を水に流すという行為が、例えば葬送のような、大袈裟で儀式的なニュアンスを帯びてくる。

 

  

・友だちであることもただ永遠に巻いてく蔓のようでさみしい

 

友人関係は恋愛とは違って、交際や結婚という節目やゴールがない。そういう視点から考えると、花を咲かせたりすることもなく、ただ永遠に蔦を巻いていくようなものだとも言えるのかもしれない。主体の客観的で冷めた把握が印象に残った。

 

他にも好きな歌を。

 

・オルガンが売られたあとの教会に春は溜まったままなのだろう

 

・必然性を問うたびに葉は落ちてゆくきみは正しいさむいさむい木

 

・ぼそぼそと遠い花火をあるはずのないはずのはねはねさきで聴く

 

・正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり

 

・でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかは自分で決める

 

 

※『七月の心臓』収録の短歌は、<兵庫ユカ『七月の心臓』bot>というアカウントからも読むことができるようです。@shichigatsuno

近藤かすみ『雲ケ畑まで』

「短歌人」の関西歌会でもお世話になっている、近藤かすみさんの『雲ケ畑まで』を読んだ。 今日はとてつもなく暑い日だったけれど、読んでいると気持ちが涼しくなるような、背筋がシュッとするような、そんな一冊だった。以下、特に好きな歌について。

 

 

・忘れたきことのあれこれカルピスは白こそ良けれむかしながらに

 

 

カルピスに限らず、今まで自分がずっと愛飲してきた飲み物に新しい味がでると、何だか複雑な気持ちになる。僕の場合は高校時代の思い出がつまったマッチ(Match)という黄色の炭酸飲料に、最近になって新しくミックスベリー味というのが登場して、何だか裏切られたような気持ちがしている。

 

 

・キッチンの床にこぼしし米粒を集めゐてふいに溢るるなみだ

 

 

米粒は拾うけれども、涙はこぼれる。米粒と涙の粒(マンガの絵でよくあるような)の形状の類似が読み手にはイメージされて、不思議な感覚を覚える。

 

 

・白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで

 

 

歌集のタイトルにもなっている「雲ヶ畑」、調べると実在する地名だということがわかり驚いた。「雲」という語と、白日傘の白が重なる。上句で「私を捨てにゆく」と一見恐ろしいことを言っているのだが、「とっぴんぱらり」と聞いて安心する。「とっぴんぱらり」は、「とっぴんぱらりのぷう」という物語の終わりを締める「めでたしめでたし」の意味に当たる言葉からとられていると思うが、この不思議な語感が、「私を捨てにゆく」ときの主体の心の状態を絶妙に言い表している気がする。

 

人生を重ねてゆくということは、小さな意味での死と再生を繰り返していくことだということを心得ているからこそ、主体は私を捨てたあとの新しい私に期待を馳せてもいるのだろう。「雲ヶ畑」という固有名詞もすごく良くて、行ったことのない人は誰しも、いったいどんな土地なのだろうと思いを巡らせるにちがいない。長くなったけれど、この歌は歌集の中でも一番印象に残った。

 

 

・銀婚の記念の旅は伊良湖崎いかな老後の夢描きけむ

 

 

この後に銀婚を終えた母親の急逝を歌った歌が続き、胸が痛む。伊良湖崎と言えば、三島由紀夫の『潮騒』の舞台。「老後の夢」のイメージが様々に膨らんで、いっそう切ない。さっきの歌の「雲ケ畑」と同様、地名の固有名詞が印象的だ。

 

 

・鬼灯が枯れてゐたつけはじめてのひとり暮らしの子のアパートに

 

 

鬼灯が枯れていた、というだけのことを歌っているのはずなのに、すごく鮮烈な歌。別に鬼灯が枯れていたからといって、そこに象徴的な意味合いはない、と言い切りたい主体の、それでも拭い切れないかすかな不安や子を思う親心が垣間見える秀歌だと思う。

 

 

他にも好きな歌を。

 

ダージリンティーにはちみつ垂らすときはつか溢せりひとには言はね

 

・ときをりは人の気配に酔ひたくて大丸地下へパン買ひにゆく

 

・水温むあさの訪れさみどりの萵苣洗ひつつ聴くモーツァルト

 

・散髪のタイミングで来るきみだから呼んでみようか散髪婚と

 

・兄のごとやさしき人と思ふとき窓より見ゆる卯の花しろし

 

雲ケ畑まで―近藤かすみ歌集

雲ケ畑まで―近藤かすみ歌集

 

安井高志『サトゥルヌス菓子店』

著者の安井高志さんは「浮島」という筆名で、twitterや『無責任』というWeb上の詩歌誌等で短歌を発表されていたとのこと。そして、その安井さんは昨年4月に急逝されており、この歌集は遺歌集ということになる。僕はこの歌集の情報をtwitterで知るまで、安井(浮島)さんのことは全く知らなかったが、twitterに流れてきた数首の歌に衝撃を受け、すぐにAmazonで歌集を注文した。

 

 

・朝焼けの世界へぼくは手を伸ばす(帆船はうしなわれつづける)

 

 

新しい朝の世界に向かって手を伸ばすそのフォルムが、帆船に喩えられ、とても美しい。しかし、その帆船は絶えず失われ続ける帆船なのだ。安井さんにとって生きることとは、何かを失い続けることだったのだろうか。

 

 

・やわらかく埋葬された本たちを砂漠で見守る司書になりたい

 

 

安井さんの短歌の作風を考える上で、笹井宏之さんを外すことはできないだろう。安井さんの歌は自分自身やその周辺の日常世界から乖離した、どこか遠い場所を舞台にした三人称的な視点から作られた歌が多い。そして、それらの歌はいつも限りない優しさに満ちている。これらの特徴は笹井さんの作品群にも通じる部分だといえるが、安井さんは、笹井さんや他のこれまでの短歌史を咀嚼した上で、更に次の段階へと表現を深化させてゆく。

 

 

・子供たちみんなが大きなチョコレートケーキにされるサトゥルヌス菓子店

 

 

歌集のタイトルにも使われている歌。一見絵本の中の話のような、寓話的な世界観が魅力のようにも思えるが、歌集全体を通してこの一首を考えると、ただのファンタジックな歌として割り切れないもどかしさがある。なぜなら、「少年や少女が無垢で未成熟なまま死ぬ」というモチーフは、この歌集の中で執拗なほど繰り返されているからである。おそらくこのモチーフというかイメージは、安井さん独自の美意識の追求の過程の中で、きわめて大きなウエイトを占めるものだったのだろう。その美意識の背景を紐解こうとするとき、著者略歴に書かれた「中学3年時、(中略)ハンガリーボーイソプラノを失う」という経歴は無視できないと思う。

 

 

・雨のなかの廃都かすれた歌声ですがりつづける標本少女

 

 

安井さんの短歌の更なる特徴の一つとして、このような歌が挙げられる。地球が滅びた後の世界のできごとを歌っているようなこれらの歌からは、『新世紀エヴァンゲリオン』を筆頭とした、セカイ系アニメ群の描く世界観との共鳴を感じる。また、関連があるかは分からないが、「標本少女」というタイトルの初音ミクの楽曲もあるようだ。

 

 

・試験管のなかの世界、さようならプリマ・マテリアぼくはいくよ

 

 

「プリマ・マテリア」は宇宙創造の原物質、という意味らしい。「ぼくはいくよ」という言葉にひやっとさせられる。圧倒的なポエジー希死念慮のせめぎ合いから生まれる独自の美意識に、現代詩的な要素やサブカルチャーの要素も織り交ぜた安井さんの短歌の可能性は、無限の広がりを持っていたはずである。僕は一読者として、安井さんの新しい作品をもう目にすることができないことを、とても残念に思う。

 

 

・おびただしいガラスの小瓶 あの人は天使をつかまえようとしていた

 

 

この歌の「あの人」が、どうしても安井さんと重なってしまう。冒頭の歌の話に戻るが、仮に生きることが失い続けることだったとしても、安井さんは天使のような、何か美しいもの、何か救いのようなものを、必死に捕まえようともがいていたのではないだろうか。そして、その格闘の痕跡である「おびただしいガラスの小瓶」こそが、僕たちに残されたこの『サトゥルヌス菓子店』という歌集なのである。

 

 

巻末の解説で清水らくはさんが、「彼の作品は、もう生み出されない。今ある彼の作品が、より多くの人に知られるようにすること。それが私のすべきことである。」と書かれていて、心に響いた。僕は生前の安井さんのことは何も知らない。けれども、この『サトゥルヌス菓子店』を読んで、すごく良いと思ったということは揺るぎのない事実で、この歌集がたくさんの人に読まれ、親しまれることを願っている。

 

 

最後に、ここまでに挙げた以外で、特に印象に残った歌を。

 

・疑わず石鹸水に吹く息の音楽 キリエ・エレイソン 父よ

 

・きみの目のとおざかる日々きがふれて桑の実つぶす手のやわらかさ

 

・歌声が法律である星にたつ死刑のためのボーイソプラノ

 

・カーテンは飛べないさかなすがるようにオキシドールとつぶやいた朝

 

・まっしろで恐ろしい朝、祈りますただとおい地下世界のマリア

 

・わらうなら紙飛行機をソドムまで見送るようにとばしてみてよ

 

・いつまでも絶えることなく友達でいよう西瓜糖工場の影

 

・ぼくが言おうぼくの言葉は放たれた切り傷である八月の窓

 

 

サトゥルヌス菓子店 (COALSCCK銀河短歌叢書)

サトゥルヌス菓子店 (COALSCCK銀河短歌叢書)

 

『短歌人』2018年7月号の、好きな歌10首(会員欄)

今朝ひとつ覚悟のようなかなしみが風に揺れたりテッポウユリよ(高良俊礼)

 

降る音が雨と気づけり薄闇の小さき神社に我が耳ふたつ(古賀大介)

 

あゆみよることですか はい。がいじんの配るカレーのビラも受け取る(鈴木杏龍)

 

忘れずにいてほしいのは約束じゃなくて今夜が雨だったこと(鈴掛真)

 

まるでパウル=クレーのような春の水 いつか溺れてしまう夕暮れ(千葉みずほ)

 

トーストにココナッツオイル垂らすときふいに不安は鳩尾をうつ(笠原真由美)

 

急用で、としか言えないシチュエーション この世にあったのでガストから走る(佐々木紬)

 

恒星が小屋に来てゐた。彼は声で、夜の広さを明らかにする。(鈴木秋馬)

 

母の句に私のことは出て来ない私は母を詠んでゐるのに(浅野月世)

 

木炭がこすったような雨の中ティースプーンがあつめるひかり(佐藤ゆうこ

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。