著者の安井高志さんは「浮島」という筆名で、twitterや『無責任』というWeb上の詩歌誌等で短歌を発表されていたとのこと。そして、その安井さんは昨年4月に急逝されており、この歌集は遺歌集ということになる。僕はこの歌集の情報をtwitterで知るまで、安井(浮島)さんのことは全く知らなかったが、twitterに流れてきた数首の歌に衝撃を受け、すぐにAmazonで歌集を注文した。
・朝焼けの世界へぼくは手を伸ばす(帆船はうしなわれつづける)
新しい朝の世界に向かって手を伸ばすそのフォルムが、帆船に喩えられ、とても美しい。しかし、その帆船は絶えず失われ続ける帆船なのだ。安井さんにとって生きることとは、何かを失い続けることだったのだろうか。
・やわらかく埋葬された本たちを砂漠で見守る司書になりたい
安井さんの短歌の作風を考える上で、笹井宏之さんを外すことはできないだろう。安井さんの歌は自分自身やその周辺の日常世界から乖離した、どこか遠い場所を舞台にした三人称的な視点から作られた歌が多い。そして、それらの歌はいつも限りない優しさに満ちている。これらの特徴は笹井さんの作品群にも通じる部分だといえるが、安井さんは、笹井さんや他のこれまでの短歌史を咀嚼した上で、更に次の段階へと表現を深化させてゆく。
・子供たちみんなが大きなチョコレートケーキにされるサトゥルヌス菓子店
歌集のタイトルにも使われている歌。一見絵本の中の話のような、寓話的な世界観が魅力のようにも思えるが、歌集全体を通してこの一首を考えると、ただのファンタジックな歌として割り切れないもどかしさがある。なぜなら、「少年や少女が無垢で未成熟なまま死ぬ」というモチーフは、この歌集の中で執拗なほど繰り返されているからである。おそらくこのモチーフというかイメージは、安井さん独自の美意識の追求の過程の中で、きわめて大きなウエイトを占めるものだったのだろう。その美意識の背景を紐解こうとするとき、著者略歴に書かれた「中学3年時、(中略)ハンガリーでボーイソプラノを失う」という経歴は無視できないと思う。
・雨のなかの廃都かすれた歌声ですがりつづける標本少女
安井さんの短歌の更なる特徴の一つとして、このような歌が挙げられる。地球が滅びた後の世界のできごとを歌っているようなこれらの歌からは、『新世紀エヴァンゲリオン』を筆頭とした、セカイ系アニメ群の描く世界観との共鳴を感じる。また、関連があるかは分からないが、「標本少女」というタイトルの初音ミクの楽曲もあるようだ。
・試験管のなかの世界、さようならプリマ・マテリアぼくはいくよ
「プリマ・マテリア」は宇宙創造の原物質、という意味らしい。「ぼくはいくよ」という言葉にひやっとさせられる。圧倒的なポエジーと希死念慮のせめぎ合いから生まれる独自の美意識に、現代詩的な要素やサブカルチャーの要素も織り交ぜた安井さんの短歌の可能性は、無限の広がりを持っていたはずである。僕は一読者として、安井さんの新しい作品をもう目にすることができないことを、とても残念に思う。
・おびただしいガラスの小瓶 あの人は天使をつかまえようとしていた
この歌の「あの人」が、どうしても安井さんと重なってしまう。冒頭の歌の話に戻るが、仮に生きることが失い続けることだったとしても、安井さんは天使のような、何か美しいもの、何か救いのようなものを、必死に捕まえようともがいていたのではないだろうか。そして、その格闘の痕跡である「おびただしいガラスの小瓶」こそが、僕たちに残されたこの『サトゥルヌス菓子店』という歌集なのである。
巻末の解説で清水らくはさんが、「彼の作品は、もう生み出されない。今ある彼の作品が、より多くの人に知られるようにすること。それが私のすべきことである。」と書かれていて、心に響いた。僕は生前の安井さんのことは何も知らない。けれども、この『サトゥルヌス菓子店』を読んで、すごく良いと思ったということは揺るぎのない事実で、この歌集がたくさんの人に読まれ、親しまれることを願っている。
最後に、ここまでに挙げた以外で、特に印象に残った歌を。
・疑わず石鹸水に吹く息の音楽 キリエ・エレイソン 父よ
・きみの目のとおざかる日々きがふれて桑の実つぶす手のやわらかさ
・歌声が法律である星にたつ死刑のためのボーイソプラノ
・カーテンは飛べないさかなすがるようにオキシドールとつぶやいた朝
・まっしろで恐ろしい朝、祈りますただとおい地下世界のマリア
・わらうなら紙飛行機をソドムまで見送るようにとばしてみてよ
・いつまでも絶えることなく友達でいよう西瓜糖工場の影
・ぼくが言おうぼくの言葉は放たれた切り傷である八月の窓