Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

穂村弘『水中翼船炎上中』

 穂村弘さんの四つ目の歌集となる『水中翼船炎上中』を、最近になってやっと読みました。以下、特に気になった歌とその感想です。

 

なんだろうときどきこれがやってくる互いの干支をたずねる時間

 

たとえば「どこの出身?」とか「血液型は?」といった質問であれば、たとえまだ親しくなっていない相手と話す場合でも、会話の話題を広げるきっかけとなるだろう。しかし、干支を尋ねても、そこから次々と会話が広がる可能性は決して高くはない。ちなみに僕は他人に干支を訊くことはまずないのだけれど、他人から干支を尋ねられると、その生真面目さ(とりあえずプロフィールの一つとして干支も確認しておこう)や、不器用さ(干支を話題にしたら会話が続くかもしれない…?)を想像して、何だか好感を持ってしまう。効率性ばかりが求められる社会において、お互いの干支を確認する時間は、豊かな時間であると言えるのかもしれない。

 

もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水

 

なぜわれわれは目覚まし時計やアラームがなる直前に目を覚ますことが多いのだろう、といつも思っている。何か本能的な予知能力が働いている感じがしてスリリングである。そのような本能的な何かが働いているかどうかはともかく、目覚まし時計がもうすぐ鳴りそうな瞬間というのは、ものすごい緊迫感がある。一秒一秒の時間がまるで目に見えそうなくらい張り詰めている中で飲む、水。ここは牛乳とかコーヒーではダメで、味のない水にさえ、その緊迫感によって何らかの味の変化が起こり得るのではないかと思った、という主体のリアルな感覚が伝わってくる歌である。

 

おおみそかしぼりにしぼったチューブからでかけた歯磨き粉がひっこんだ

 

一年の中で大晦日と元旦は特別な日であるという感覚はもちろん今もあるけれど、子どもの頃のその感覚はとても強いものだった。作者によるとそれは、「歯磨き粉が出かけたけれど引っ込んだのは、全てが終わり次の一年がまた始まるのを待つための日である大晦日という特別な一日の持っている、得体のしれない大いなる力によるものだ」と思ってしまっても不思議ではないくらい、特別なものだったということである。大晦日には歯磨き粉は全て空になっていなければいけないし、もし仮にチューブから出てくるのだとしたら、また来年になってからにしてね、ということなのだ。

 

ネクターの細いカンカン手に持って海をみている子供の人は 

 

ネクターの細い缶のジュースは、たしかピーチ味とかフルーツミックス味だったような気がする。今では細い缶自体を見なくなってしまったので、これは実際の風景ではなく、回想の中の景だと思う。「子供の人」という表現に作者の子供時代への憧憬が凝縮されている。普通「花火は大人の人と一緒にやりましょう」とか、「大人の人」という言い方はするが、「子供の人」という言い方はしない。かつて子供だった頃には遠く頼れる存在だった「大人の人」に自らがいざなってみると、ネクターの細い缶を手に持って眼前の海に無限の未来を思い描く「子供の人」は、はるか遠くの手が届かない、魅力的な存在に思えるのである。

 

海に投げられた指環を呑み込んだイソギンチャクが愛を覚える

 

海に指環が投げられたということは、一つの愛が破局を迎えたのだろう。本来なら指環は海に捨てられた時点で、その道具としての機能(愛情のあかし)は消滅し、ただの金属でしかなくなる。しかし、それをイソギンチャクが呑み込むという奇跡が起こることで、指環を捨てた人の全く関知しない海の中で、愛が芽生えるのだ。歌集の一番最後に置かれたこの童話的な歌には、機能性や効率性、さまざまな利害関係と不可分の現代社会の中で、こういうささやかな奇跡のような事が、自分の知らないところでたくさん起こっていたらいいな、という作者の願いが込められているのではないだろうか。

 

描きかけのゼブラゾーンに立ち止まり笑顔のような表情をする

「なんかこれ、にんぎょくさい」と渡されたエビアン水や夜の陸橋

三十五歳までならあなたの背は伸びるマイクロフォンが叫ぶ夕映 

胡桃割り人形同士すれちがう胡桃割り尽くされたる世界

海からの風きらめけば逆立ちのケチャップ逆立ちのマスタード

水中翼船炎上中

水中翼船炎上中