Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

10月14日の日記

 かにぱん

 

 かわいいものはさみしい。そう思うようになった瞬間を、どういうわけか鮮明に覚えている。それはある朝「かにぱん」を食べたときだ。かにぱんとは、かわいい蟹のイラストが描かれた袋に入った、蟹の形をしたパンのこと。製造元のホームページを見ると、「かわいいかにのかたちをした人気者! ほんのり甘くシンプルな味わいです」と説明がある。大学の頃、朝食はたいてい、前日の夜にコンビニで何かひとつパンを買っておいて、それを食べていた。かにぱんを食べるのはその朝がはじめてだったと思う。

 当時付き合っていたひとが、前日の夜から僕のアパートに泊まりにきていた。だからコンビニでパンを買ったときは、そのひとも一緒にその場にいた。別に二人でかにぱんを選んだとかではなく、僕がいつも通り翌朝のパンをひとりで適当に選んで買っただけなのだけれど、いつもは食べない妙にかわいいパンを手に取ったときの僕は、今思えば少し浮かれていたかもしれない。

 そのひとが一限の授業へ行くために朝早く家を出ていったあと、僕は朝食をとることにした。コンビニのビニールからかにぱんを取り出し、いつものようにぼんやり食べはじめる。ところが、パンの袋に描かれた無垢な蟹のキャラクターに何気なく目をやりながらパンを頬張っていると、急に涙がぼろぼろこぼれてきた。どうしてパンを食べているだけなのに泣かなくてはならないのか、咄嗟にはわからなかった。

 かわいいものというのは、いかなるときも、他者のまなざしの存在を前提とする。あるものを見て「かわいい」と思う他者がいてはじめて、そのあるものは「かわいいもの」ということになるからだ。その付き合っていたひとと僕はおそらく、お互いのかわいいところ、言わばかにぱんのような部分だけをそれまでずっと見せ合っていたのだということに気付いた。そういう関係はいつまでも続くものではない。そもそも、「かわいい」はあまりに主観的だ。僕が誰か(何か)をかわいいと思うとき、そのかわいさが僕の存在なしには保証されないなんて、とてもやりきれない。そういうようなことを一気に直感して、そのときの僕は泣いてしまったのだった。

 結局、そのひととはそれから半年後くらいに別れてしまったけれど、そのかにぱんの朝以来、かわいいものを見るとよくさみしいと思うようになり、そんなときは必ずかにぱんを思い出してしまうようになった。かわいいものはさみしい。そしてそのさみしさは僕の脳内で、いつもかにぱんの形をしている。