Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

短歌人さんを読む①

 

『短歌人』の歌の一首評を少しずつ、時間の許す範囲で書いていこうかな、と思います。気長にお付き合いいただけましたら……。

 

塩で炒めただけのキャベツをつまみつつ水仙みたいな夢想に浸る/千葉みずほ

 

水仙」「夢想」とあると、ギリシャ神話のナルキッソスをイメージする。湖に映った自分の姿に恋をしてしまったナルキッソスの話と「塩で炒めただけのキャベツ」には、かなり距離があるように思えるが、キャベツの葉から水仙の葉がイメージされたのだろうか。奔放な想像力を感じる歌。

 

弱点を打ちあけようと今日はした歩行者天国傘一本で/相田奈緒

 

打ち明け話をさあするぞと思った瞬間、急に心細くなって(もしくは、冷静になって)周囲の状況を確認すると、ここは商店街か何かの歩行者天国であり、手には傘が一本あるだけだった、ということなのだが、不思議と強い印象が残る。「天国」という言葉からは、今から自分の弱みを晒そうという場面にはそぐわない少し間抜けな印象を受け、「傘一本で」という書き方をされると、まるで傘が武器のように見えてくる。傘は武器として使うには、何とも頼りない。「歩行者天国傘一本で」という表現から、主体の心情が色々と読み取れそう。

 

長い髪ひとふりしてゆく屈折のいわせた言葉はそこに落として/笠原真由美

 

「屈折」という言葉に、まるで実体があるかのような言い方。それだけ主体にとって「屈折」は存在感があるというか、馴染みの深いキーワードなのではないだろうか。「屈折のいわせた言葉」がどのような内容のものであるかは推測するしかないが、本当の自分の気持ちとは異なる、人間関係を円滑に保つための表面的な言葉なのかもしれない。それを長い髪をひとふりすることで払い落とし、颯爽と立ち去ってゆく主体のカッコよさ。

 

テレビの先生だはしゃぐ気持ちをレトリーバーがべろべろに舐める/国東杏蜜

 

テレビで見たことのある有名な先生を実際に生で見ることができ、はしゃぎそうになる主体。でも主体は大人なので、「はしゃぐ気持ち」に意識的に何らかのストップをかける(または、無意識のうちにストップがかかる)。そのストップ現象を、レトリーバーからべろべろに舐められているように感じた、ということなのだろうか。べろべろに舐められることによって主体は、はしゃぐ気持ちが収まる。しかし、レトリーバー自体ははしゃいでいるからこそ「べろべろに舐める」という行為をするわけで、このレトリーバーもまた主体の意識(または無意識)の中からやってきた存在であるという整合性が、奇妙な形で保たれている、という風に個人的には読んだが、他にも色々読めるはず。(おそらく)心象のレトリーバーが、主体の気持ち「を」舐めるという自由な発想が、清々しい。

 

折りたたむとプードルになるひざ掛けをプードルにして落とし物箱へ/姉野もね

 

この世界の様々な事物にはそれぞれに望ましい形がある、ということへのささやかな信頼。そして、それを信じていたいという祈りにも近い気持ちで、ひざ掛けをそっとプードルの形に折りたたみ、落とし物箱へと入れる。迷子になってしまったプードルが、飼い主にちゃんと見つけてもらえるように、と願いながら。

 

※掲出歌はすべて『短歌人』2019年7月号より。