石井僚一さんの『死ぬほど好きだから死なねーよ』を読みました。この歌集はまるでカメレオンのように、様々な角度から色々な修辞を駆使した歌を提示してくるのだけれど、歌集の一番最後の歌にもあるように、最終的には「らぶ」を志向した上での、紆余曲折の旅の道程なのだろうと自分の中では感じました。今回はその「らぶ」がなるべくわかりやすい形で出ている短歌の中から、特に好きな歌の感想をいくつか書きたいと思います。
・いつか一緒に死ぬかもしれない人の手だと思って触れようとする夜の縁
恋人が起きている時に、「いつか一緒に死ぬかもしれない人の手」だと思って触れることは、あまりないだろう。自分だけ目が覚めてしまい、眠っている恋人の傍らで色々と思いを巡らせていると、ふと、この人といつか一緒に死ぬかもしれない、という少し甘美ともいえる思いに至る。夜明け前の、時間の流れが遅く感じる時のムードが伝わってくる。
・花の名を覚えるたびに忘れゆく花の個のこと 恋をしていた
花の名前を知らないうちは、例えば「帰り道のあの家の前に咲いているあの花」だった花も、ひとたびその花の名称を知ってしまうと、その花をどこで見かけたとしても同じものに見えるようになってしまう、ということだろう。一字空けからの「恋をしていた」は解釈に少し迷うけれど、個人的には、以前の恋愛のことを振り返っていて、当時はかけがえのない思いを抱いていたのに、今となってはこれまでの恋愛経験の中の一つとして自分の記憶の中でカテゴライズされてしまっていることへのやりきれない気持ち、という風に読んだ。
・もらうことに慣れてはいけない 夜空には架空のひかりとしての星々
夜空の星々は「架空」とはいうものの、もちろん実際に存在はしている。ただ私たちが実際にその星に行ったりすることはできず、光だ、と認識する以上のことはできないがゆえに「架空」の存在なのである。夜空の星々と同じように、この世界には確かに存在していながらも、限られた人生の中では決して関わることのないたくさんの光がある。自分が本当に関わることのできる範囲のことは、実はとても少ない。
・いち、にっ、さん、死後にもういちど会いましょう あなたのなりたい駅を教えて
すごく切ない。事情があって、たぶん、生きている間はもう会うことのないだろう好きだった人への歌。いきなり「死後にもういちど会いましょう」とは切り出せず、少し冗談めかしてから本題に入る。あなたがどこの駅になりたいかを教えてくれたら、世界じゅうどこの駅だとしても、会いにいく。「駅」はその土地から動かない存在だから、場所さえ分かれば絶対に会える。でも「駅」は、私たちにとって目的地に行く際に「通過する場所」でもあり、死後の世界であっても「あなた」とは邂逅の末に、結局すれ違うことしかできない運命にあるのだろうか。転生の対象としての「駅」、の一語がはてしなくイメージを膨らませている。また、美しい駅名の駅になりたいか、ショッピングモールが隣接するような機能性の高い駅か、田舎の無人駅か…等、どういう駅になりたいかという問いの答えには、一人一人の美学や人生観が現れるだろうという視点から読んでも面白い。もしかすると、作中主体は「あなた」が二人の思い出の駅を選んでくれることを、ほのかに期待したりしているのかもしれない。
・プールに金魚が鮮やかでどの子がわたしたちだろうねってこれからすくうやつだよ
一瞬でも他の誰かにはなることができないままならなさと、いまこの瞬間の交換不可能性が、「金魚」というはかないイメージを通して、それこそ「鮮やかに」描かれている。