Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『MITASASA』第14号、相互評

MITASASA第14号の相互評を公開いたします。今回はメンバーの三田三郎・笹川諒に加え、暮田真名さんをゲストにお迎えしての川柳号でした!

 

自分から自分にうつる風邪もある

/三田三郎「アナザーストーリー」

 

 「風邪」について述べている句でありながら、より強い印象を受けるのは「自分から自分にうつる」という箇所だ。単純に言えば、ここには「自分が二人いる」ような気がする。ふつう風邪というのは一度引いて、治り、そしてまた引くものである。掲句のように「自分から自分に」風邪をうつしていたのでは、身体が休まる暇がない。自分が二人いることの怖さを教えてくれる句だ。<暮田>

 

金柑の中の王都を煮詰めよう

/笹川諒「釘」

 

 あの黄金色の小さな果実の中に、「王都」があるという。それを「煮詰めよう」としている。火にかけられた金柑はやがて煮崩れするだろう。王都もまた。王都が崩落する。内部の人間に転覆されるのではなく、外部から加えられる不可抗力の力によって。金柑の中に収まるミニチュアの王都を崩すことには、精巧な模型を手掴みで壊すような奇妙な恍惚も伴うだろう。そのすべてが黄金の光につつまれている。<暮田>

 

アルミホイルに包まれたままの人がいる

/暮田真名「この世のベッドルームミュージック」

 

 我々はみな母体から生まれてきたかのような気になって暮らしているけれども、誰も自らの誕生の瞬間を記憶しているわけではないのだから、実際は神秘化された空想の始点を共有しようという暗黙裡の協働に便乗しているだけなのかもしれない。人間などというものは案外、登山客が一休みする際にリュックサックから取り出す握り飯のように、どこからともなくアルミホイルに包まれてこの世に生まれてくるのかもしれない。とすれば我々は、どこかのタイミングでアルミホイルを脱ぎ捨て、その後はあたかも母体から生まれてきたかのように白々しくすまし顔を決め込み、自らの出生の真相を都合よく忘却しているのだろうか。そして、そこに突如として現れる「アルミホイルに包まれたままの人」という存在は、そうした社会の共同幻想的欺瞞を告発するトリックスターとしての役割を担いうるのではないか……。

 この句は、社会に蔓延る欺瞞を暴き出すという批評的な構えを保持しながらも、それをひとまず極限まで形式化した後に、改めてキュートでユーモラスなポエジーを充填するという、周到な手続きを踏んで作られている。乱暴な図式化であることを承知で言えば、この句は古川柳と現代川柳の止揚に成功している。そのレベルの句と対峙しているのだから、評者の私が少しばかり錯乱しているのは当然のこととしてご容赦願いたい。<三田>

 

末弟がヒヤシンスより多いです

/暮田真名「この世のベッドルームミュージック」

 

 末弟は、一番末の弟のことなので、そもそも二人以上の人物を指し示すことができない日本語だ。なので、厳密に文意をとると、この句は弟が何人いるかというような話ではなくて、末弟とヒヤシンスを比較した際に弟の方に何が「多い」のか、が省略されている句だと考えられる。省略部分を強引に補うとすれば、たとえば、水を飲む量が多い、とかになるだろう(それも変な話だけれど)。末弟とヒヤシンスを同じ土俵に引きずり出してくるところが面白い。

 しかし、読み手はこの句を初めてぱっと見せられたときに、果たしてそのように句を読むだろうか。私は初読時、何でこの人はそんなにたくさん弟がいるのかな、と一瞬思ってしまった。ヒヤシンスといえば、水栽培をしたときに球根の末端から生えてくる無数の白い根っこを思い浮かべる人も多いだろう。無意識のうちに、ヒヤシンスの根っこの本数と弟の数を頭の中で比較してしまっていた。「末弟」という一人しか指すことのできない単語と、「ヒヤシンス」と聞いて読み手がイメージする映像を巧みに利用した、言葉のイリュージョンのような句だと思う。<笹川>