Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

小谷博泰『カシオペア便り』

小谷博泰さんの第十二歌集、『カシオペア便り』。私家版、2019年。

 

ベイルマンの映画だったか雨上がりの路地裏が見えただけの一コマ

 

映画の中の何ということはない、些細なシーン。しかし、そのシーンを主体がたまたま思い出したとき、人生という時間の中に同じような「とある映画を思い出しただけの一コマ」が、その瞬間から存在することになるのだ。

 

一両ごとに我がすわっているような 今過ぎて行く快速電車

 

日常生活の中で、ふいにパラレルな自己を意識する瞬間。この歌集に収録されている歌は、あとがきによると「現実詠」と「虚構詠」の二つに大きく分かれるらしい。「虚構詠」の連作では、SFやホラー等の様々なフィクションに基づく歌が登場する。この電車の歌は「現実詠」の歌だと思われるが、作者の物語世界への希求が垣間見える一首だと思った。

 

モゲモゲのプラネットに来て飛び回るこの女たぶんただものでない

 

「虚構詠」の連作の中の歌。「モゲモゲ」の語感がとりあえず面白いが、「モゲモゲのプラネット」が具体的にどのようなものかは前後の歌を読んでも、明確には分からない。「虚構詠」の連作の特徴として、舞台設定や世界観などの大枠はト書きのような歌によって示されるものの、物語のコアとなる部分はあまり言及されず、読み手が想像して補うための余白が作られている場合が多い。その部分を読者は自分なりに空想して楽しめば良いのだ。

 

桜の葉が色づきはじめ散りはじめこの景色には僕が見えない

 

景色が主体のことを見ることができないのは、桜の木には視覚器官がないので、当たり前のことだ。ただ、景色の方からは全く認知されていないにも関わらず、主体は同一の時間に、おそらく桜の木のとても近い場所に確かに存在している。そう考えると、この歌集の「虚構詠」で展開されるパラレルワールドのような世界も、ひょっとしたらどこかに実在するのかもしれない、という風な気がしてはこないだろうか。

 

逝くときのまぼろしとしてわがのぞむヒマラヤの青いケシの一輪

日に焼けた少女が去って坂道に濃き家のかげ遮断機下りる

ある時は五階の窓から風に舞う若き王女の羽蟻のわれか

宇宙一あたしはあわれな女だと泣いてる 目玉を手に転がして

青春が俺にあったか無かったかゆっくりゆっくり沖を行く船

赤とんぼあるいは僕の飛んでいて夏のなごりの花の小ささ