Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『MITASASA』第4号、相互評

三田三郎さん、ゲストの大橋弘さんと発行したネットプリント『MITASASA』第4号の相互評を公開します。ネプリの配信は3月21日木曜日までとなっておりますので、まだの方はぜひお読みいただけますと幸いです!

  

みずぎわ、とあなたの声で川が呼ぶ/笹川諒

ゆっくりと燃えないパフェを食べている/同

風鈴を非営利で鳴らしています/同

 

笹川さんの川柳は、例えばこの三句のように用言で終わると、詩だと感じる。言葉の先、つまり用言の先がまだあるようだ。一句目、川に呼ばれた後、どうするのか、読み手がそこに何かを加える余地がある。パフェを食べた後も、風鈴を鳴らした後も一緒。それぞれ「燃えない」とか「非営利」なんて屈折があるので、それも含んで次のアクションを想像する。

 

勇敢なほうの水から作るお茶/笹川諒

搾りきることのできない月でした/同

 

一方、体言で終わる句は、川柳とも、詩とも言い切れない。だぶん「挑発」だ。詩的な挑発。委ねられているというような生やさしいものではない。挑発には、何かを付け加える余地がない。しかし読み手は、ありえない(かもしれない)お茶や月を受け止めることができる。そう、受け止めることはできるのだ。読み手というものは幸運だ。<大橋>

 

心にも管理人のおじさんがいて水を撒いたり撒かなかったり/三田三郎

 

『自律神経没後八年』という沈鬱なタイトルの連作の中で、比較的穏便な作品。でも、屈託はある。心のことだけに、「管理人のおじさん」は自分そのものかもしれない。潤いを与える撒水。が、おじさんは水を撒いたり撒かなかったりだ。あてにならない「おじさん≒自分」にそこはかとなく諦めも漂う、ミニマムなファンタジー

 

奪うんじゃなくて奪われたものをただ取り返すだけそれだけで夕暮れ/三田三郎

 

破調。だが、生き急ぐような切羽詰まった読みぶりに、一読目は定型だと思った。結句に飾りっ気のないただの「夕暮れ」が置かれて、マイナスをゼロにするだけの徒労感が呼び覚まされる。でも、「ただの夕暮れ」というのがまたしぶといもので、言葉そのものの徳を活かして、前半の狂騒を受け止めて揺るがない。しかも、「それだけで」の「で」が痛々しい。この一文字には、徒労に近い「取り返す」ための時間の経過が沈んでいるからだ。<大橋>

 

心臓と同じ高さに夕焼けを置き、それからがみなしごだった/大橋弘

 

魅力的な歌。一読してすぐ意味が取れるような歌ではないので、あくまで読みの一例ということで。「夕焼け」は簡単に情感を生むことができる語(だからこそ常套語でもあり、詩の文脈においては慎重に用いる必要がある)だが、ここではそれを逆手にとって、実景としての夕焼けに加えて、「詩」的なものの総称のような意味役割を担っているように思う。そう考えると、心臓(生命維持に関わる最も大事な体の部位)と同じ高さ=同じ価値に夕焼け(総体としての詩)を置く、という読み方ができる。しかし、それだけ主体が詩に心身を捧げた結果は、「みなしご」なのだ。どれだけ一意専心に詩と向き合ったからといって、すぐにスラスラと詩が書けるとは限らない。誰も助けてくれない孤独の中で必死に詩を模索していくしかないのだ。この歌からは作者の創作に対する姿勢を垣間見ることができる。補足すると、「みなしご」は夕焼けから連想される童謡「七つの子」(歌に出てくるカラスは、山の自分の巣に子どもが七羽いる)を踏まえた、縁語的な語選択なのではないかと思った。<笹川>

 

明け方のサーカス小屋の静けさがあるだろ俺の名刺の書体/大橋弘

 

これは自慢したくなるのも無理はない。一般的には味気ないものが多い名刺の書体が、静謐な詩情を湛えているのだから。きっと名刺を出すのが楽しみで仕方ないことだろう。なんという書体なのかこっそり教えてほしいくらいだが、なんとなく教えてくれない気がする。名刺の上にひっそりと現れたポエジーを自慢する作中主体の、誇らしげで、ちょっぴり意地悪で、それでいてどこか憎めない幸福そうな顔が、ありありと目に浮かぶようだ。<三田>