昨日葉ね文庫でお会いした、三田三郎さんの第一歌集『もうちょっと生きる』を読んだ。
・1日を2万で買ってくれるなら余生を売ってはいさようなら
結句の「はいさようなら」に驚く。余生を一日二万円で売って、そのお金を何かに使おうという訳ではなく、ただ人生を終わらせるための何か些細なきっかけでもあれば、それに乗っかってしまうのに、という主体の切迫した希死念慮が読み取れる歌である。
・飛び降りる者にとっての天国はコンクリートの下のまだ下
・終電が行けば朝まで鮮血を浴びることなく眠れる線路
・ほろ酔いで窓辺に行くと危ないが素面で行くともっと危ない
この歌集における希死念慮は、死への甘やかな憧れのような表面的なものではなく、かなりのリアリティを伴って描かれる。自分が飛び降りた後のこと、電車にはねられた後のことまで明確にイメージされていて、「素面で行くともっと危ない」のような表現は、自死という行為について日頃から思いを巡らせていないとなかなか出てこない表現なのではないかと思う。ネガティブな感情ではあるのだけれど、このリアリティはこの歌集独自のものだ。
・ただ一つ信じるならばキャバクラの上に学習塾のあるビル
・鼻毛をも教えてくれる友人が教えてくれぬ数々のこと
・こっそりとさよならを言う離れると水の流れる便器のように
三田さんの短歌の更なる特徴として、「キャバクラ」「鼻毛」「便器」といった、一見露悪的な単語を使った歌に、とても存在感がある。キャバクラや鼻毛の歌では、偽善やうわべではない「本当のこと」を切に求める主体の清らかさが、露悪的な単語から逆照射されることで、かえって際立っている。
・録画した野球中継巻き戻し未知の病気の自然治癒待つ
・空き瓶の奥に新たな瓶が待ち修行のように飲酒は続く
・教室で喋ると教室に喋らされてる気がしない? しない、ああそう
歌集タイトルが『もうちょっと生きる』ということもあり、歌集全体を通してどうしても生/死が主題の作品が多いが、主題とは少し外れた、上記のような面白い作品も収録されている。歌集が一ページにつき一首組みになっていることからもわかるように、三田さんの短歌は一首の独立性や密度がきわめて高い。これから三田さんがどういう主題やテーマで短歌を作られていくのかはわからないが、「仕方なく電車を降りた先」できっと生まれる、素敵な短歌を楽しみにしていようと思う。
・山手線十周しても人生は終わらないから渋谷で降りる