Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

水について

 先日、短歌関係の友人と話していて、「短歌によく登場させる言葉とかモチーフって何?」という話になった。僕が普段から短歌を作ることに対して、あまり能動的じゃない(紙やPCに向かって、さあ今から短歌を作るぞ、ということはほとんどない。残念ながら、そのやり方では作れない)ことと関係があるかはわからないけれど、今までそういうことは全然考えたことがなかった。

 これまでに作った短歌をざっと思い出してみたところ、「水」という単語がふと思い浮かんだ。帰宅して調べると、やはり、というか想像していた以上に「水」という単語の入った短歌が多くて、驚いた。

 

 もうすぐであなたにだってなれたのに 傘袋では水が私語する

 カテドラルのようなかなしみ(埋まらない)水は水だとしても、まだ水

 優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊

 

といった感じの歌だ。ちなみに、一種の自己模倣なのか、「水」が含まれる歌にはなぜか読点の入った歌が目立った。

 さて、どうして水の歌が多いのか。他の人の短歌を読んでいても「光」とか「風」といった自然に関係する語は多く登場するし、水が多いのも大体そういう傾向の現れだろう、と考えると容易に納得することはできる。けれど、それだけではない、水にこだわる自分なりの理由があるような気がするのだ。僕は、人間でも動物でも植物でも、命あるものに直に触れているとき、不思議といつも距離を感じる。近接していればしているほど、はるか遠くにあるもののように思えてしまう。それでも、大地に川が走り、空気中を水が巡り、僕の中に、そして、「あなた」の中に水が流れる、という事実は、僕が何か大きなものの一つのピースとして安住していても大丈夫だよ、という感覚をふつふつと与えてくれているように思う。

 何だか壮大な話になってしまったけれど、要は自分の短歌にどういう言葉が多く使われているかを振り返ってみると、色々と考えるきっかけになるのでオススメですよ、という話でした。

 

(※『短歌人』2017年9月号の三角點に掲載された文章を、一部修正しています。)

 

☆★☆★

 

という文章を以前書いたのだけれど、これを書いた頃(2017年6月末)は、ふわふわした気持ちで短歌をやっていたな、と今からしたら思う。今年の年明け以降、短歌の周りで色々なことがあって、とりあえず短歌を精一杯やってみよう、と思うようになった。精一杯やってみようと思って初めて、短歌が頑張れば頑張るほど結果が出るジャンルではないことの恐ろしさを知ることになった。自分の中では、何というか、人生や生活を丁寧に進めていくこと(それが良い短歌を詠むコツだ、みたいなことを誰かの文章で読んだ気がするけれど、どの文章だったか思い出せない)と、歌集を読んだり他の分野の芸術に触れたりすることの二つが上手く噛み合っている時に、自分でも納得できるような短歌ができやすい気がしている。なので、バランスを大事にしつつ、今年は色々挑戦していけたら、と思っている。