Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『短歌人』2018年20代・30代会員競詠から好きな歌

手をつなぎゆつくり進む子とふたり紋白蝶に追ひ越されをり(桃生苑子

 

考えの差し出し方のうつくしいあなたの真似で五月を抜ける(相田奈緒

 

犬をイヌ用キャリーで運ぶ人がいていつもより強くつり革を持つ(浪江まき子)

 

乳酸菌一億個 個? 個だそうです 一億個、二個買ってみますか(山本まとも) 

 

丹頂鶴の美しいこと折れそうな足を見てたら恐ろしくなる(佐々木あき)

 

たったいま舐めたばかりの濡れた毛の質感こそを猫と呼ぶべし(有朋さやか)

 

一人なら自然な笑いができるのにどうして外ではできぬのだろう(上村駿介)

 

どこで覚えたか分からぬが座っている私の肩を優しくさする(笠原宏美)

 

図図算音体国 明日の時間割吟じつつ子がランドセル閉づ(河村奈美江)

 

ra ra ru あなたが失われた部屋の冷たい床の体育座り(北城椿貴)

 

アパートの植え込みにさっと入りこむハクビシンを見た 先日も(小玉春歌)

 

流されていけば何かが見つかると抱かれたままで空(くう)をまさぐる(笹渕静香)

 

花束はちゃんと綺麗だ貯めていたTポイントで注文しても(鈴掛真)

 

背表紙に指を掛ければ夏雲がわたしの奥で湧きたつ気配(葉山健介)

 

にび色の空を押し上げ鼓門金沢駅は”まつり”の前夜(松村翔太)

 

親兄弟かれにも言えぬことごとを引き受けくれる歌ぞいとしき(真中北辰)

 

十七の頃に必ず頼んでたコスモドリアを今も食べてる?(古賀たかえ)

 

せせらぎはひとすじの楽器であった。楽譜は書いたそばから燃えた。(鈴木秋馬)

 

老犬と老人がまだあたたかい焼き印のように連れ立ってゆく(大平千賀)

 

海底を散歩している錯覚をそのままにして駅を目指した(天野慶

 

際限のあるものとして美しく就活生が日傘をさして(中井守恵)

 

 

それぞれの作者の方の、特に好きな一首です!

兵庫ユカ『七月の心臓』

兵庫ユカさんの短歌は『桜前線開架宣言』で印象に残っていて、いつか読みたいなと思っていた。先日ふと歌集の入手方法を調べてみると、販売は終了、国内でも所蔵している図書館が一館しかない(国立国会図書館にもない)という状況だったので、急いで地元の図書館で取り寄せを申し込んだ。

 

※マニアックな話になるけれど、一館しか所蔵がないということはその図書館で除籍されてしまうと(国立国会図書館のように資料の保存を主目的としない図書館の場合、貸出回数が少ない本は廃棄される場合がある)、もう後は個人的に入手する方法を探すしかなくなってしまう。もし地元の図書館を通じてそういう資料を取り寄せて利用する場合、その本の利用実績にもなるので、その本自体がその後除籍されにくくなるというメリットもある。ちなみに、現在『七月の心臓』の所蔵が確認できたのは日本大学文理学部図書館のみ。「歌葉」の歌集は国立国会図書館に入っていないものが多いので、図書館を通じた入手が難しい傾向にある。

CiNii 図書 - 七月の心臓

 

 

・明日風をつくる機械をオフにする 必要ならば求めるだろう

 

風は何の比喩だろう。無意識のうちに何かに流されてしまっている自分を、一旦フラットな位置からやり直したいという、宣言の歌だと思った。兵庫さんの代表歌<でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかはじぶんで決める>にも通じるものを感じる。

 

 

・一羽ずつ立つ白い鳥真っ白い鳥せかいいちさみしい点呼

 

幻想的で、かつ、世界の終わりのような荒涼とした場面が思い浮かぶ。三句目と四句目の「真っ白い鳥」の句跨がりが、声に出すと「真っ白い」と「鳥」の間に微妙なポーズを生んで、さみしさがより増幅される気がする。

 

 

・死んだ海 わたしが揺らす目薬の わたしも死んだ海なのだろう

 

目薬の液体を目に浮かべたまま、揺らしてみる。そしてそれと同時に、自分の体全身も実は水を含んで揺れているのだということに気付く。その思考というか認知のプロセスが、文体からリアルに伝わってくる歌。

 

 

・飛び散った鱗を流すキッチンにだんだらだんと満ちる水音

 

水がステンレスのシンクに落ちるときの音のオノマトペ、「だんだらだん」。すごい。調理された魚の残骸である鱗を水に流すという行為が、例えば葬送のような、大袈裟で儀式的なニュアンスを帯びてくる。

 

  

・友だちであることもただ永遠に巻いてく蔓のようでさみしい

 

友人関係は恋愛とは違って、交際や結婚という節目やゴールがない。そういう視点から考えると、花を咲かせたりすることもなく、ただ永遠に蔦を巻いていくようなものだとも言えるのかもしれない。主体の客観的で冷めた把握が印象に残った。

 

他にも好きな歌を。

 

・オルガンが売られたあとの教会に春は溜まったままなのだろう

 

・必然性を問うたびに葉は落ちてゆくきみは正しいさむいさむい木

 

・ぼそぼそと遠い花火をあるはずのないはずのはねはねさきで聴く

 

・正しいね正しいねってそれぞれの地図を広げて見ているふたり

 

・でもこれはわたしの喉だ赤いけど痛いかどうかは自分で決める

 

 

※『七月の心臓』収録の短歌は、<兵庫ユカ『七月の心臓』bot>というアカウントからも読むことができるようです。@shichigatsuno

近藤かすみ『雲ケ畑まで』

「短歌人」の関西歌会でもお世話になっている、近藤かすみさんの『雲ケ畑まで』を読んだ。 今日はとてつもなく暑い日だったけれど、読んでいると気持ちが涼しくなるような、背筋がシュッとするような、そんな一冊だった。以下、特に好きな歌について。

 

 

・忘れたきことのあれこれカルピスは白こそ良けれむかしながらに

 

 

カルピスに限らず、今まで自分がずっと愛飲してきた飲み物に新しい味がでると、何だか複雑な気持ちになる。僕の場合は高校時代の思い出がつまったマッチ(Match)という黄色の炭酸飲料に、最近になって新しくミックスベリー味というのが登場して、何だか裏切られたような気持ちがしている。

 

 

・キッチンの床にこぼしし米粒を集めゐてふいに溢るるなみだ

 

 

米粒は拾うけれども、涙はこぼれる。米粒と涙の粒(マンガの絵でよくあるような)の形状の類似が読み手にはイメージされて、不思議な感覚を覚える。

 

 

・白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで

 

 

歌集のタイトルにもなっている「雲ヶ畑」、調べると実在する地名だということがわかり驚いた。「雲」という語と、白日傘の白が重なる。上句で「私を捨てにゆく」と一見恐ろしいことを言っているのだが、「とっぴんぱらり」と聞いて安心する。「とっぴんぱらり」は、「とっぴんぱらりのぷう」という物語の終わりを締める「めでたしめでたし」の意味に当たる言葉からとられていると思うが、この不思議な語感が、「私を捨てにゆく」ときの主体の心の状態を絶妙に言い表している気がする。

 

人生を重ねてゆくということは、小さな意味での死と再生を繰り返していくことだということを心得ているからこそ、主体は私を捨てたあとの新しい私に期待を馳せてもいるのだろう。「雲ヶ畑」という固有名詞もすごく良くて、行ったことのない人は誰しも、いったいどんな土地なのだろうと思いを巡らせるにちがいない。長くなったけれど、この歌は歌集の中でも一番印象に残った。

 

 

・銀婚の記念の旅は伊良湖崎いかな老後の夢描きけむ

 

 

この後に銀婚を終えた母親の急逝を歌った歌が続き、胸が痛む。伊良湖崎と言えば、三島由紀夫の『潮騒』の舞台。「老後の夢」のイメージが様々に膨らんで、いっそう切ない。さっきの歌の「雲ケ畑」と同様、地名の固有名詞が印象的だ。

 

 

・鬼灯が枯れてゐたつけはじめてのひとり暮らしの子のアパートに

 

 

鬼灯が枯れていた、というだけのことを歌っているのはずなのに、すごく鮮烈な歌。別に鬼灯が枯れていたからといって、そこに象徴的な意味合いはない、と言い切りたい主体の、それでも拭い切れないかすかな不安や子を思う親心が垣間見える秀歌だと思う。

 

 

他にも好きな歌を。

 

ダージリンティーにはちみつ垂らすときはつか溢せりひとには言はね

 

・ときをりは人の気配に酔ひたくて大丸地下へパン買ひにゆく

 

・水温むあさの訪れさみどりの萵苣洗ひつつ聴くモーツァルト

 

・散髪のタイミングで来るきみだから呼んでみようか散髪婚と

 

・兄のごとやさしき人と思ふとき窓より見ゆる卯の花しろし

 

雲ケ畑まで―近藤かすみ歌集

雲ケ畑まで―近藤かすみ歌集

 

安井高志『サトゥルヌス菓子店』

著者の安井高志さんは「浮島」という筆名で、twitterや『無責任』というWeb上の詩歌誌等で短歌を発表されていたとのこと。そして、その安井さんは昨年4月に急逝されており、この歌集は遺歌集ということになる。僕はこの歌集の情報をtwitterで知るまで、安井(浮島)さんのことは全く知らなかったが、twitterに流れてきた数首の歌に衝撃を受け、すぐにAmazonで歌集を注文した。

 

 

・朝焼けの世界へぼくは手を伸ばす(帆船はうしなわれつづける)

 

 

新しい朝の世界に向かって手を伸ばすそのフォルムが、帆船に喩えられ、とても美しい。しかし、その帆船は絶えず失われ続ける帆船なのだ。安井さんにとって生きることとは、何かを失い続けることだったのだろうか。

 

 

・やわらかく埋葬された本たちを砂漠で見守る司書になりたい

 

 

安井さんの短歌の作風を考える上で、笹井宏之さんを外すことはできないだろう。安井さんの歌は自分自身やその周辺の日常世界から乖離した、どこか遠い場所を舞台にした三人称的な視点から作られた歌が多い。そして、それらの歌はいつも限りない優しさに満ちている。これらの特徴は笹井さんの作品群にも通じる部分だといえるが、安井さんは、笹井さんや他のこれまでの短歌史を咀嚼した上で、更に次の段階へと表現を深化させてゆく。

 

 

・子供たちみんなが大きなチョコレートケーキにされるサトゥルヌス菓子店

 

 

歌集のタイトルにも使われている歌。一見絵本の中の話のような、寓話的な世界観が魅力のようにも思えるが、歌集全体を通してこの一首を考えると、ただのファンタジックな歌として割り切れないもどかしさがある。なぜなら、「少年や少女が無垢で未成熟なまま死ぬ」というモチーフは、この歌集の中で執拗なほど繰り返されているからである。おそらくこのモチーフというかイメージは、安井さん独自の美意識の追求の過程の中で、きわめて大きなウエイトを占めるものだったのだろう。その美意識の背景を紐解こうとするとき、著者略歴に書かれた「中学3年時、(中略)ハンガリーボーイソプラノを失う」という経歴は無視できないと思う。

 

 

・雨のなかの廃都かすれた歌声ですがりつづける標本少女

 

 

安井さんの短歌の更なる特徴の一つとして、このような歌が挙げられる。地球が滅びた後の世界のできごとを歌っているようなこれらの歌からは、『新世紀エヴァンゲリオン』を筆頭とした、セカイ系アニメ群の描く世界観との共鳴を感じる。また、関連があるかは分からないが、「標本少女」というタイトルの初音ミクの楽曲もあるようだ。

 

 

・試験管のなかの世界、さようならプリマ・マテリアぼくはいくよ

 

 

「プリマ・マテリア」は宇宙創造の原物質、という意味らしい。「ぼくはいくよ」という言葉にひやっとさせられる。圧倒的なポエジー希死念慮のせめぎ合いから生まれる独自の美意識に、現代詩的な要素やサブカルチャーの要素も織り交ぜた安井さんの短歌の可能性は、無限の広がりを持っていたはずである。僕は一読者として、安井さんの新しい作品をもう目にすることができないことを、とても残念に思う。

 

 

・おびただしいガラスの小瓶 あの人は天使をつかまえようとしていた

 

 

この歌の「あの人」が、どうしても安井さんと重なってしまう。冒頭の歌の話に戻るが、仮に生きることが失い続けることだったとしても、安井さんは天使のような、何か美しいもの、何か救いのようなものを、必死に捕まえようともがいていたのではないだろうか。そして、その格闘の痕跡である「おびただしいガラスの小瓶」こそが、僕たちに残されたこの『サトゥルヌス菓子店』という歌集なのである。

 

 

巻末の解説で清水らくはさんが、「彼の作品は、もう生み出されない。今ある彼の作品が、より多くの人に知られるようにすること。それが私のすべきことである。」と書かれていて、心に響いた。僕は生前の安井さんのことは何も知らない。けれども、この『サトゥルヌス菓子店』を読んで、すごく良いと思ったということは揺るぎのない事実で、この歌集がたくさんの人に読まれ、親しまれることを願っている。

 

 

最後に、ここまでに挙げた以外で、特に印象に残った歌を。

 

・疑わず石鹸水に吹く息の音楽 キリエ・エレイソン 父よ

 

・きみの目のとおざかる日々きがふれて桑の実つぶす手のやわらかさ

 

・歌声が法律である星にたつ死刑のためのボーイソプラノ

 

・カーテンは飛べないさかなすがるようにオキシドールとつぶやいた朝

 

・まっしろで恐ろしい朝、祈りますただとおい地下世界のマリア

 

・わらうなら紙飛行機をソドムまで見送るようにとばしてみてよ

 

・いつまでも絶えることなく友達でいよう西瓜糖工場の影

 

・ぼくが言おうぼくの言葉は放たれた切り傷である八月の窓

 

 

サトゥルヌス菓子店 (COALSCCK銀河短歌叢書)

サトゥルヌス菓子店 (COALSCCK銀河短歌叢書)

 

『短歌人』2018年7月号の、好きな歌10首(会員欄)

今朝ひとつ覚悟のようなかなしみが風に揺れたりテッポウユリよ(高良俊礼)

 

降る音が雨と気づけり薄闇の小さき神社に我が耳ふたつ(古賀大介)

 

あゆみよることですか はい。がいじんの配るカレーのビラも受け取る(鈴木杏龍)

 

忘れずにいてほしいのは約束じゃなくて今夜が雨だったこと(鈴掛真)

 

まるでパウル=クレーのような春の水 いつか溺れてしまう夕暮れ(千葉みずほ)

 

トーストにココナッツオイル垂らすときふいに不安は鳩尾をうつ(笠原真由美)

 

急用で、としか言えないシチュエーション この世にあったのでガストから走る(佐々木紬)

 

恒星が小屋に来てゐた。彼は声で、夜の広さを明らかにする。(鈴木秋馬)

 

母の句に私のことは出て来ない私は母を詠んでゐるのに(浅野月世)

 

木炭がこすったような雨の中ティースプーンがあつめるひかり(佐藤ゆうこ

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

『うたつかい』29号から、好きな歌10首

宇宙人を殺めるような勢いが大事なのです採点業務は(牛隆佑)

 

親知らず抜かれし痕を舌先になぞれば壊れてゆく鰯雲(太田宣子)

 

君の名を呼ぶのをやめてしあわせと似ている場所で暮らしています(きつね)

 

春よりも苦手になつたひとに買ふやはらかくないはうの八ツ橋(東雲めかり)

 

くちづけのために生まれてきたのかもしれず洗っているマグカップ(笹谷香菜)

 

扉には蝉とスカラベ触れようとすれば崩れてゆく博物誌(雀來豆)

 

ささやかな日々の暮らしのあれこれを味わいながら繰り返したい(諏訪灯)

 

都会ではなかったけれど良い田舎でもなかったわたしの地元(タイトロープ・コダマ)

 

わたしからわたしは絶対逃げられない夜の森 めくらめっぽう歩く(穂崎円) 

 

すうべにあすべての川を渡りゆく記憶のひとつひとつに黄砂(杜崎アオ)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

 

『うたつかい』については、こちらから。

短歌なzine「うたつかい」

小佐野彈『メタリック』

巻末の野口あや子さんの解説に「異色の経歴に見落とされがちな、この折り目正しい定型観とたしかな描写は、おそらくここ数年の若手歌人にはなかったものだ。作歌意識はむしろ古典的と言える」とある。これはまさにその通りで、ここ最近歌集をあまり読めていなかったのとも重なったのか、この小佐野さんの『メタリック』を読んでいると、すごく「短歌を読んでいる!」という実感が湧いた。それと同時に、自分が短歌的な短歌(表現が難しいけれど)にもやはりちゃんと惹かれる部分を持っていたことが確認できて、何だか嬉しくなった。

 

 

・どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか 無垢な日本で

 

 

短歌研究新人賞受賞作の一連より。前後の歌から、二人は同性の恋人同士と考えられる。空気は目に見えない。その空気の中に20%くらい含まれている酸素を無意識のうちに吸うことで、われわれは生命を維持している。社会も空気と同じように目に見えて把握できるものではなく、同性愛者というマイノリティの側の立場の人にとって、社会にどれだけ自分たちのアイデンティティが受容されているのか、ということは常に未知で計り知れない部分なのではないかと思う。けれどどれだけ不安に思ったところで、空気中の酸素濃度が多少変動しようともわれわれはその量の酸素を吸って生きるしかないのと同様、自分が今いるその社会の中で生きていくしかないのだ、という風に読んだ。

 

小佐野さん自身によるこの歌のネタバレ(?)が書かれている記事を、たまたま見つけたのでリンクを。

http://genxy-net.com/post_theme04/9292217l/

 

 

・蕁麻疹胸にひろごる晩秋にきつと迎へに来るさ彼なら

 

 

この歌の前の歌、<寝るまへに飲みくだすべく鈴蘭の骨のやうなる錠剤を割る>から、蕁麻疹の原因は薬の副作用だろうか。また、更に前の歌で心療内科に行く場面が詠まれているので、ストレスが原因の蕁麻疹なのかもしれない。蕁麻疹の直接の原因はわからないけれど、蕁麻疹の赤色は「彼」へのSOS信号のようだ。蕁麻疹は一般的に美しいと言われるものではないと思うけれど、この歌の蕁麻疹はどこか美しさを孕んでいる。

 

 

・スカートを風になびかせタカヒロは西北西の空を仰ぎぬ

 

 

タカヒロ」は性同一性障害なのか、それともクロスドレッサーなのだろうか。いずれにせよ、世間からするとマイノリティの側の人間だと言える。西北西という細かい方角を普段意識することはまずないけれど、「タカヒロ」にとって空が開かれているのは、東でも西でもなく、西北西のみなのだ。けれどこの歌からは「風になびかせ」という表現から、閉塞感というよりはむしろ、西北西の空が「タカヒロ」にとって開かれていることへの祝福に近いものを感じた。

 

 

・傾斜角は夜毎に深くなるやうだ異性愛者はひどく疲れて

 

 

傾斜角が深くなるというのは、雑踏の中の帰宅中のサラリーマンの群れが疲れて俯きがちになっているということなのか、それとも眼前の特定の一人を指しているのか微妙なところ。ただいずれにせよ、対象を「異性愛者」と呼ぶことに衝撃を受ける。「この人は同性愛者だ」ということはあっても、「この人は異性愛者だ」とわざわざ言うことはまずないからだ。でもそのこと自体、社会のマジョリティの側の立場からの偏った認識だと気付かされる。そして、大分言葉の選択が難しくなってきたけれど、偏った視点を排し、「同性愛者」と「異性愛者」を完全にフラットなものとして二つ並べたときに、「異」の文字はやけに目立つ。まるで「異性愛者」の方がマイノリティであるかのようだ。そういったプロテストがこの「異性愛者」という言葉の選択には込められているような気がする。

 

 

メタリック

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