Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

『うたつかい』29号から、好きな歌10首

宇宙人を殺めるような勢いが大事なのです採点業務は(牛隆佑)

 

親知らず抜かれし痕を舌先になぞれば壊れてゆく鰯雲(太田宣子)

 

君の名を呼ぶのをやめてしあわせと似ている場所で暮らしています(きつね)

 

春よりも苦手になつたひとに買ふやはらかくないはうの八ツ橋(東雲めかり)

 

くちづけのために生まれてきたのかもしれず洗っているマグカップ(笹谷香菜)

 

扉には蝉とスカラベ触れようとすれば崩れてゆく博物誌(雀來豆)

 

ささやかな日々の暮らしのあれこれを味わいながら繰り返したい(諏訪灯)

 

都会ではなかったけれど良い田舎でもなかったわたしの地元(タイトロープ・コダマ)

 

わたしからわたしは絶対逃げられない夜の森 めくらめっぽう歩く(穂崎円) 

 

すうべにあすべての川を渡りゆく記憶のひとつひとつに黄砂(杜崎アオ)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

 

『うたつかい』については、こちらから。

短歌なzine「うたつかい」

小佐野彈『メタリック』

巻末の野口あや子さんの解説に「異色の経歴に見落とされがちな、この折り目正しい定型観とたしかな描写は、おそらくここ数年の若手歌人にはなかったものだ。作歌意識はむしろ古典的と言える」とある。これはまさにその通りで、ここ最近歌集をあまり読めていなかったのとも重なったのか、この小佐野さんの『メタリック』を読んでいると、すごく「短歌を読んでいる!」という実感が湧いた。それと同時に、自分が短歌的な短歌(表現が難しいけれど)にもやはりちゃんと惹かれる部分を持っていたことが確認できて、何だか嬉しくなった。

 

 

・どれほどの量の酸素に包まれて眠るふたりか 無垢な日本で

 

 

短歌研究新人賞受賞作の一連より。前後の歌から、二人は同性の恋人同士と考えられる。空気は目に見えない。その空気の中に20%くらい含まれている酸素を無意識のうちに吸うことで、われわれは生命を維持している。社会も空気と同じように目に見えて把握できるものではなく、同性愛者というマイノリティの側の立場の人にとって、社会にどれだけ自分たちのアイデンティティが受容されているのか、ということは常に未知で計り知れない部分なのではないかと思う。けれどどれだけ不安に思ったところで、空気中の酸素濃度が多少変動しようともわれわれはその量の酸素を吸って生きるしかないのと同様、自分が今いるその社会の中で生きていくしかないのだ、という風に読んだ。

 

小佐野さん自身によるこの歌のネタバレ(?)が書かれている記事を、たまたま見つけたのでリンクを。

http://genxy-net.com/post_theme04/9292217l/

 

 

・蕁麻疹胸にひろごる晩秋にきつと迎へに来るさ彼なら

 

 

この歌の前の歌、<寝るまへに飲みくだすべく鈴蘭の骨のやうなる錠剤を割る>から、蕁麻疹の原因は薬の副作用だろうか。また、更に前の歌で心療内科に行く場面が詠まれているので、ストレスが原因の蕁麻疹なのかもしれない。蕁麻疹の直接の原因はわからないけれど、蕁麻疹の赤色は「彼」へのSOS信号のようだ。蕁麻疹は一般的に美しいと言われるものではないと思うけれど、この歌の蕁麻疹はどこか美しさを孕んでいる。

 

 

・スカートを風になびかせタカヒロは西北西の空を仰ぎぬ

 

 

タカヒロ」は性同一性障害なのか、それともクロスドレッサーなのだろうか。いずれにせよ、世間からするとマイノリティの側の人間だと言える。西北西という細かい方角を普段意識することはまずないけれど、「タカヒロ」にとって空が開かれているのは、東でも西でもなく、西北西のみなのだ。けれどこの歌からは「風になびかせ」という表現から、閉塞感というよりはむしろ、西北西の空が「タカヒロ」にとって開かれていることへの祝福に近いものを感じた。

 

 

・傾斜角は夜毎に深くなるやうだ異性愛者はひどく疲れて

 

 

傾斜角が深くなるというのは、雑踏の中の帰宅中のサラリーマンの群れが疲れて俯きがちになっているということなのか、それとも眼前の特定の一人を指しているのか微妙なところ。ただいずれにせよ、対象を「異性愛者」と呼ぶことに衝撃を受ける。「この人は同性愛者だ」ということはあっても、「この人は異性愛者だ」とわざわざ言うことはまずないからだ。でもそのこと自体、社会のマジョリティの側の立場からの偏った認識だと気付かされる。そして、大分言葉の選択が難しくなってきたけれど、偏った視点を排し、「同性愛者」と「異性愛者」を完全にフラットなものとして二つ並べたときに、「異」の文字はやけに目立つ。まるで「異性愛者」の方がマイノリティであるかのようだ。そういったプロテストがこの「異性愛者」という言葉の選択には込められているような気がする。

 

 

メタリック

メタリック

 

佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』

佐藤弓生さんの第一歌集を読んだ。これまでの経験上、歌集なら第一歌集、小説ならデビュー作が結局一番好き、という作家さんが多かったけれど、佐藤さんの場合、第一、第二、第三歌集と重ねるにつれて、表現の幅が広がり、詩的深度も増しているし、何よりも作者自身がどんどん自由を手にしていっているように感じる(特に文体などの点において)。とはいえもちろん、この『世界が海におおわれるまで』にも好きな短歌は数多くあり、また、佐藤さんには珍しく職場詠などもあって、色々と発見があった。

 

 

・青空に手足をひたす冬の午後ぼくらの石はわずかに育つ

 

「ぼくらの石」が、何だろうと思う。「意志」という言葉も思い浮かぶ。空に手足をひたしているときの、少しだけ自然に近づけたような感覚を独自の言い回しで表現している。

 

・おびただしい星におびえる子もやがておぼえるだろう目の閉じ方を

 

この世界が本当は目を閉じずにはいられないくらい眩しい光にあふれたものであるということを、思い出させてくれる。目の閉じ方を覚えてしまった大人たちは、時には意識して目を見開いていなければならないのかもしれない。

 

・うつくしい兄などいない栃の葉の垂れるあたりに兄などいない

 

「うつくしい兄」は萩尾望都ポーの一族』のエドガーあたりをイメージさせる。「栃の葉の垂れるあたり」と具体的な場所が示されるのが面白く、主体の想像する「うつくしい兄」の植物的な属性を表しているようでもある。

 

・野葡萄が喉につまったままのきみだから父にはならなくていい

 

野葡萄が何かのメタファーで、これが喉から取れることが一種の通過儀礼だということだろう。その後の<鬼ゆりの花粉こぼれたところからけむりたつ声 カストラートの>と合わせて、佐藤さんの両性具有への憧憬を詠んだ歌は、この辺の歌が端緒なのだろうか。

 

・牛乳瓶二本ならんでとうめいに牛乳瓶の神さまを待つ

 

飲み手(?)に牛乳を届けるという使命を果たした牛乳瓶は、澄んだ心で神さまの迎えが来るのを待っている。アニミズム的でもあり、日常の細部へと注がれる視点が光る。同時に、自らも人生の伴侶と、この牛乳瓶たちのようにシンプルに生をまっとうしたいという願いも込められているのだろう。

 

 

巻末の井辻朱美さんの解説がとても良かった。文章の最後の部分を引用。

「視点のゆらぎと、このただよいかたのゆくりなさ。それがこの作者のいちばんのふしぎさであり、作品世界のやさしさの根源にあるものではないだろか。」

 

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佐藤弓生さんの他の歌集の感想はこちらから。

佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』 - Ryo Sasagawa's Blog

佐藤弓生『薄い街』 - Ryo Sasagawa's Blog

 

世界が海におおわれるまで

世界が海におおわれるまで

 

『短歌人』2018年6月号の、好きな歌10首(会員欄)

異国では誰かがひとり涙する君がくしゃみをひとつするとき(鈴掛真)

 

鈍感になればなるほど浮いているような心地のカフェテリア内(小玉春歌)

 

見えているもののすくなさ 卓上の春雨炒めぎらぎらし過ぎ(相田奈緒

 

戸口にて夢見るやうに取り落とす。鍵に映つた朝の景色を(鈴木秋馬)

 

終わりなき更紗模様の世界樹よ君の描きしイグドラシルよ(笠原真由美)

 

照らされたさくらは汚い ガラケーで撮ったみたいで目がはなせない(浪江まき子)

 

いま言葉はつる植物のやわらかな曲線を描き私に触れる(千葉みずほ)

 

「自販機の人」と呼ばれる名前ではなくてなんだか気が楽でいい(宗岡哲也

 

時間が経つまで待っているので水戸黄門から大相撲まで早くして(佐々木紬)

 

いちどきり川の近くに出逢ひたる樹木がありて憧れやまず(富樫由美子)

 

 

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佐藤弓生『薄い街』

『眼鏡屋は夕ぐれのため』に引き続き(佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』 - Ryo Sasagawa's Blog)、『薄い街』を読みました。最近は現代詩と短歌の境界について考えていたりするのですが、佐藤弓生さんはちょうどその境界の領域にいる歌人の一人だろうということもあり、興味深く読みました。

 

 

・ひとりまたひとり幼い妖精を燃やす市あり夜と呼びたり ※市=いち

 

「ようせい」「よる」「よびたり」は、まず音ありきで、音から意味が運ばれてくるような感じがする。もっと言うと、歌全体のリズミカルな音の連なりこそが、妖精を燃やすという非現実的なイメージにある種の必然性のようなものをもたらし、一首の歌ととして成立させていると言えるのではないだろうか。佐藤さんの歌の大きな特徴である音への配慮は、『薄い街』でも顕著に見られる。

 

・春の日の不可知を問えばとうとうとピアノをあふれくる黒い水

 

このピアノはグランドピアノじゃないかと思う。僕の実家にもグランドピアノがあるけれど、小さい頃は謎めいた大きな黒い物体に、ほとんど気圧されていた。「不可知」は漢字の熟語だけれど、「ふかち」という音はどこか和語のような響きもあって(例えば皁莢=さいかち、とか)、美しい。「春の日の不可知を問えば」は、「とうとうと」を導く序詞のようでもある(「とえば」「とうとうと」)。

 

 ・石の汗ほのかに匂う参道をゆけばわたしはむかし石の子

 

『薄い街』を読む前から知っていた歌で、おそらく有名な歌なのだろう。参道を歩くときは、厳かな気持ちになり、一瞬気が引き締まる。そのいつもより鋭くなった五感で、石の汗のにおい(というか石のにおい?)を知覚する。その瞬間、主体と石との精神的距離は一気に接近し、きっと私の前世は石だったのだ、と思い至る。「わたしはむかし石の子」の意味的飛躍を支えるのはやはり、「わたし」「むかし」「いし」の、音による統御ではないだろうか。

 

 ・あとかたもなかった 草の寝台で草の男と寝てたみたいに

 

「草」という語の喚起するイメージ。ホイットマンの『草の葉』とか、福永武彦の『草の花』とか。男性/女性、生/死、現実/幻想など様々な境界を、作中主体はやすやすと越境する。

 

 ・からっぽのからだかかえて鳴りやまぬ蟬を礼拝堂と呼ぶべき

 

蝉が必死に鳴き続ける様子は、確かに懸命に何かに祈っているようにも思える。礼拝堂は、海外などの大きな教会になればなるほど、高い天井によって作られる大きな空洞が印象的だ。蝉の体の構造についての知識はないけれど、いずれにせよ、真夏、たくさんの礼拝堂から祈りの声が響き渡っている世界は、あまりにも幻想的で、あまりにも愛おしい。

 

その他にもたくさんの好きな歌。

 

身めぐりをかこむ記憶のみっしりと果肉みたいなあなたを愛す

眼の濡れた生きものきみは 更けてゆく夜のガラスを振りかえるとき

海へ海へとわたしを乗せてくだりゆく黒い自転車いいえ黒馬

紫外線濃き一日を街角に少女はなくしたいものだらけ

なにもかもやりなおせるさ新世紀アジアの花も花のいくさも

夏の朝なんにもあげるものがない、あなた、あたしの名前をあげる

その中がそこはかとなくこわかったマッチの気配なきマッチ箱

飛ぶ紙のように鳥たちわたしたちわすれつづけることが復讐

 

  

薄い街

薄い街

 

『うたつかい』30号から、好きな歌10首

今回からPDF版ができた『うたつかい』。スマホで読んだり、結局印刷して紙でも読んだりして、楽しみました。その中から、特に好きな歌を10首。

 

 

毒を持つ花の切手のうらがはを疑ひもせずきみは舐めたり(有村桔梗)

 

女子大に通っていたい女子大は森だからつくりおわってる森(井口可奈)

 

「One for all, All for one!」が口癖の先生いなくなったって富良野で(上篠かける)

 

揺るぎないものになりたい五十年連れ添った老夫婦になりたい(瀧音幸司)

 

シャーペンの芯になりたい全身できみの想いを見える化したい(西淳子)

 

感情を使ひ果たして眠るときわれに遺作のごときため息(濱松哲朗)

 

左手を百合の形にひろげつつおもねる春のわたしを捨てて(藤本玲未)

 

色彩で話せるならばいまはもう菫色、の、濃淡ばかり(穂崎円)

 

花をおもうゆえに花あり晩年をおもうときみなあざやかすぎて(杜崎アオ)

 

硝子張りの駅舎の外は羽根がふる微熱のきみのまぶたで溶けた(カニエ・ナハ)

 

 

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『うたつかい』については、こちらから。

http://utatsukai.com/

千原こはぎ『ちるとしふと』

歌集の装丁が良い!と思って、Amazonでポチりました。表紙だけでなく、歌集の中にも短歌にちなんだたくさんのイラストが描かれていて、素敵な歌集でした。以下、特に好きな歌の感想です。

 

・おかえりと言う人のない毎日にまたひとつ増えてしまうぺんぎん 

 

一人暮らしの寂しさを紛らわすために、ペンギンのグッズを次々買ってしまう。もしかしたら、ノートや手帳の隅にペンギンのイラストが増えていく、ということかも。まあそれはともかく、歌集のこの歌が載っているページにはペンギンのイラストが載っていてかわいい。このペンギンはちゃっかり(?)表紙にもいる。

 

・すべてから置き去りにされているような心地してたぶんありふれている

 

感情があふれ出すような場面でも、どこか客観的というか、冷静さを失わないのが千原さんの歌の魅力なような気がする。<すきすぎてきらいになるとかありますかそれはやっぱりすきなのですか>の歌とかもそういう視座から詠まれた歌だなと思う。

 

・オシャレ女子のヘアアレンジを描きながら寝起きのままだ髪も素肌も

 

イラストレーターさんの素顔ってこんな感じなのか、と思う。この歌以外にもイラストやデザインのお仕事を詠んだ短歌が色々あって、今まで見たことのなかった世界が垣間見えた。

 

・友人の個展のはがき アーティストではないことをまた嚙み締める

 

こういう少しネガティブな感情も素直に歌にできる人はすごいと思う。読者としては信頼して読み進められるし、きっと作者にとって短歌は人生においてなくてはならないものなのだろうな、と思った。

 

・冬深くやわらかに強いられているこの日常は選択の果て

 

「やわらかに強いられている」が、確かにそんな感じだなと思う。どれだけ自分では良かれと思った選択を重ねて、ある程度は望んだ日常を手に入れたとしても、全てが思い通りにいくことなんてないのだから。

 

ちるとしふと (新鋭短歌シリーズ39)

ちるとしふと (新鋭短歌シリーズ39)