『眼鏡屋は夕ぐれのため』に引き続き(佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』 - Ryo Sasagawa's Blog)、『薄い街』を読みました。最近は現代詩と短歌の境界について考えていたりするのですが、佐藤弓生さんはちょうどその境界の領域にいる歌人の一人だろうということもあり、興味深く読みました。
・ひとりまたひとり幼い妖精を燃やす市あり夜と呼びたり ※市=いち
「ようせい」「よる」「よびたり」は、まず音ありきで、音から意味が運ばれてくるような感じがする。もっと言うと、歌全体のリズミカルな音の連なりこそが、妖精を燃やすという非現実的なイメージにある種の必然性のようなものをもたらし、一首の歌ととして成立させていると言えるのではないだろうか。佐藤さんの歌の大きな特徴である音への配慮は、『薄い街』でも顕著に見られる。
・春の日の不可知を問えばとうとうとピアノをあふれくる黒い水
このピアノはグランドピアノじゃないかと思う。僕の実家にもグランドピアノがあるけれど、小さい頃は謎めいた大きな黒い物体に、ほとんど気圧されていた。「不可知」は漢字の熟語だけれど、「ふかち」という音はどこか和語のような響きもあって(例えば皁莢=さいかち、とか)、美しい。「春の日の不可知を問えば」は、「とうとうと」を導く序詞のようでもある(「とえば」「とうとうと」)。
・石の汗ほのかに匂う参道をゆけばわたしはむかし石の子
『薄い街』を読む前から知っていた歌で、おそらく有名な歌なのだろう。参道を歩くときは、厳かな気持ちになり、一瞬気が引き締まる。そのいつもより鋭くなった五感で、石の汗のにおい(というか石のにおい?)を知覚する。その瞬間、主体と石との精神的距離は一気に接近し、きっと私の前世は石だったのだ、と思い至る。「わたしはむかし石の子」の意味的飛躍を支えるのはやはり、「わたし」「むかし」「いし」の、音による統御ではないだろうか。
・あとかたもなかった 草の寝台で草の男と寝てたみたいに
「草」という語の喚起するイメージ。ホイットマンの『草の葉』とか、福永武彦の『草の花』とか。男性/女性、生/死、現実/幻想など様々な境界を、作中主体はやすやすと越境する。
・からっぽのからだかかえて鳴りやまぬ蟬を礼拝堂と呼ぶべき
蝉が必死に鳴き続ける様子は、確かに懸命に何かに祈っているようにも思える。礼拝堂は、海外などの大きな教会になればなるほど、高い天井によって作られる大きな空洞が印象的だ。蝉の体の構造についての知識はないけれど、いずれにせよ、真夏、たくさんの礼拝堂から祈りの声が響き渡っている世界は、あまりにも幻想的で、あまりにも愛おしい。
その他にもたくさんの好きな歌。
身めぐりをかこむ記憶のみっしりと果肉みたいなあなたを愛す
眼の濡れた生きものきみは 更けてゆく夜のガラスを振りかえるとき
海へ海へとわたしを乗せてくだりゆく黒い自転車いいえ黒馬
紫外線濃き一日を街角に少女はなくしたいものだらけ
なにもかもやりなおせるさ新世紀アジアの花も花のいくさも
夏の朝なんにもあげるものがない、あなた、あたしの名前をあげる
その中がそこはかとなくこわかったマッチの気配なきマッチ箱
飛ぶ紙のように鳥たちわたしたちわすれつづけることが復讐