Ryo Sasagawa's Blog

笹川諒/「短歌人」所属/「西瓜」「ぱんたれい」同人

瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』

最近、瀬戸夏子さんの短歌が気になっている。瀬戸さんの短歌の一般的なイメージを一言で言うなら、「とにかくわからない短歌」なのではないだろうか。僕自身も第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』、第二歌集『かわいい海とかわいくない海 end.』と読み進めたけれど、実際、収録されている短歌のそのほとんどの意味を理解することはできなかった。にも関わらず、好きな短歌は数多くあった。良いと思ったということは、そこには何らかの理由が必ず存在するはずだ。そう考えれば考えるほど、瀬戸さんの短歌がますます気になってしまう。

 

『かわいい海とかわいくない海 end.』に収録されている瀬戸さんの短歌を、とりあえず二つに分類してみる。

 

①一首が何らかの統一されたイメージを結んでいる歌

 

 

 花はさかりに血液をさかのぼる水増えてそのまま時はきみの味方だ

 絵にすればスイッチと言う死の前日のダンスと言えばわたしだと言う

 恋よりももっと次第に飢えていくきみはどんな遺書より素敵だ

 未来の声が届く範囲からではだめきれいな心を与えすぎてた

 春に勇気を夏に栞を持ち込んでマリアはふたたびわたしを呼んだ

 

 

例えば、これらの歌は読んですんなり意味が通るというわけでは決してないにせよ、短歌を読む際にわれわれが普段用いているコードを使って読むことができる。三十一音を通して何らかの統一された一つの圧倒的なイメージがあり、色々な角度から歌の意味を解釈しようというアプローチが、少なくとも可能ではある(もちろん一般的な短歌と比較すると、相当難解な歌として、だけれど)。

 

この歌集を読んで自分が好きな歌を選べと言われたら、きっと大多数の人がこの①のグループの歌の中から選ぶのではないかと思う。しかし、この①のグループの短歌は歌集全体を通して見れば、一割程度にすぎない。

 

②一首が何らかの統一されたイメージを結ぶことを許されていない歌

 

 

 そっくりなディズニーランド操縦しマフラー編んだ声を椅子にし

 ムーミンの一勝一敗 誰何する乱も変をもとどろきのただひとすじの二重となった

 

 

これらの歌のように、歌を解釈しようとするわれわれのアプローチを軽く一蹴して、短歌自体が理解・解釈されることを積極的に拒否するような歌が、むしろ歌集の大部分を占めている。瀬戸さんは様々なテクニックを駆使して、われわれが短歌を読む際に無意識のうちに前提としている、「一首の中には一つの世界が広がっていて、それは何らかの理解・解釈に結実させることができる」という期待を打ち破ってゆく。

 

 

 利き手と名づけておいた葡萄の最高裁をにぎりつぶした、まだ間に合うから

 きっときみから花の香りがしてくるだろう新幹線を滅ぼすころに

 

 

最高裁」「新幹線」という単語がもしも別の単語だったらどうなるだろう。これら二首の歌は「最高裁」「新幹線」という単語が存在するがゆえに、一首として意味を把握することがほぼ不可能に近い状態になっていると思う(利き手と名づけておいた葡萄、も十分難しいけれど)。このあたりから、作者がかなり恣意的に短歌が一首として意味を持つことを回避しようとしているように感じる。

 

瀬戸さんは破調、意味の混乱を誘発させるような接続詞の使用、位相の異なる単語を組み込むことによる一首全体の意味の無効化などを行い、積極的に既存の短歌というジャンルの脱構築を行っている。その試みの意図は何なのだろう。歌集の最後に収録されている「メイキング・オブ・エンジェル」という文章から引用する。

 

「ラ・プチット・ビジューは発言の九割が的外れで、残りの一割が世界の真実の的の真ん中を撃ちぬく、そういうタイプの脳のつくりをしていた。(中略)私が愛していたのはどちらかというと世俗の靄がかかってはいるもののどこにもよるべのない九割の言葉のほうで、それをきいているとどこかとてもなつかしくけれどまだいったことのないあたらしい、けれどとても親しい場所へつれていってくれそうな錯覚に襲われることさえあった。」

 

この文章は瀬戸さんが何を指向して短歌を作っているのか、ということのヒントになると思う。先ほどの①のグループが世界の真実の一割の方で、②のグループが的外れな九割の方だと考えることもできるし、そもそも瀬戸さんの短歌は全て九割の方のグループに属するもので、①のグループの短歌はたまたま従来の短歌の読みのコードが捕捉できる範囲のものだったに過ぎないと考えることもできるだろう。

 

いずれにせよ、②のグループの短歌を「とにかくわからない短歌」とカテゴライズするだけに留まり、考えることを放棄するのはとてももったいないことだと思う。まだまだ瀬戸さんの作品世界の総体は未知で、もしかしたら、「メイキング・オブ・エンジェル」にミスリードされている可能性だってあるけれど、今後も瀬戸さんの作品や文章をフォローしながら考えていきたいと思う。

 

 

☆★☆★

 

 

僕自身もまだ瀬戸さんの作品で読めていないものがたくさんあるので、今すぐ、というわけではないのですが、瀬戸さんの短歌について語る会みたいなのができたら良いなと考えています。他の人(短歌を普段から読んでいない人も含めて)が、瀬戸さんの短歌を読んでどう感じるのか、ということにとても興味があるからです。題材としては市販されていて入手もしやすい、この『かわいい海とかわいくない海 end.』が良いのかなと思っています。

 

 

かわいい海とかわいくない海 end. (現代歌人シリーズ10)

かわいい海とかわいくない海 end. (現代歌人シリーズ10)

 

『短歌人』2018年5月号の、好きな歌10首(会員欄)

飲食は娯楽にあらずひとの子も なまごみしるがくろきすじひく(鈴木杏龍)

 

水を盛る器としての手の窪みふたつ合わせて顔洗いおり(たかだ牛道)

 

朝が来て帰ってしまうのがいやでワイシャツのボタンを取った 全部(古賀たかえ)

 

有限の私の中にまたひとつ新規作成してひらく湖(佐藤ゆうこ) ※湖=うみ

 

筋肉にあなたの心にじみ出てそれはどこにも記録されない(相田奈緒

 

永遠に正しく笑う母がいる 家族写真は日に焼けていく(空山徹平)

 

うちの柿盗んでいったおばさんがおばさんのまま終わる平成(北城椿貴)

 

蟻地獄のように吸い込まれる百貨店 信号変われば終わり(加藤真弓)

 

上書き保存で消した歌稿を思い浮かべるピアニストのポーズ(国東杏蜜)

 

湯たんぽの湯は冷めてなお水でなく新しい朝に温みを残す(高橋道子)

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

<一首評>初谷むいさんの短歌より

エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ

/初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』

 

 

ちょっとした遊び心で、エスカレーターを「えすか」と略して呼ぶ。でもそれは二人だけにしか通じない特別な呼び方。長い「えすか」を下から見上げると、どこか遙か遠い場所のことを思ってしまう。「えすか」。まるで「永遠」を意味する外国語のような響きだ。私たちにはいつから、物に名前をつける力があったのだろう。どれだけ昼間一緒にいても、必ず一人一人別々に過ごす夜はあって。あなたの夜を二人で過ごすことはできないのだけれど、それなら、せめて、あなたの夜を思うよ。

 

という風に読んだ。以下、同じ歌集の中より。

 

・お湯のことさゆって呼べばおいしそう さゆ きみの中身を知りたいよ

・最近は「驟雨」を覚え本屋さんで汗かくことに「驟雨」を当てた

・なにになったらわたしはさみしくないんだろう柑橘系の広場の中で

・ぼくはきみの伝説になる 飛べるからそれをつばさと呼んで悪いか

 

「さゆ」の歌は、構造的にも「えすか」の歌にとても似ている。「名付ける/名前を呼ぶ」という行為は、初谷さんの中でとても重要なことなのだろう。新しい名前として与えられた言葉は、目の前の現実を超越し、羽ばたいてゆく。「えすか」のような造語や、「柑橘系の広場」といったオリジナルな言葉の組み合わせによる世界の再構築・再定義は、歌集の巻末で山田航さんが述べている「新鮮なリズム感覚」に加えて、初谷さんの短歌の大きな特徴の一つだと思う。

佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』

佐藤弓生さんの歌集を読むのは、『モーヴ色のあめふる』以来、二冊目。色々ときっかけがあって(twitterでの佐藤さんのツイートに感銘を受けた、最近現代詩への興味が更に増した、等)、佐藤弓生ワールド再チャレンジ、といった感じです。付箋を貼りまくりながら読んだのですが、その中の何首かについて書きます。

 

 

・ふたしかな星座のようにきみがいる団地を抱いてうつくしい街

 

「うつくしい」という単語を短歌で使うのはなかなか難しいけれど、この歌の「うつくしい」はすごく自然。下の句の音のリズム感が、「うつくしい」という単語が持つある種の押しつけがましさを取り除いてくれているのだと思う。音への(時に過剰なまでの)配慮は、佐藤さんの短歌の大きな特徴。

 

 

・さくらばなほろほろほろぶ男たちスカートはいて駆けておいでよ

 

佐藤さんの短歌は、両性具有的な美を指向した歌が多いのも一つの特徴だと言える。スカートの色はさくら色なのだろう。

 

 

・感情の機械に生まれ黙黙ときみもわたしもゆきのまちゆく

 

全く異なる思考・性格であるはずの二人の人間が、お互いに「黙」という共通の感情を選択しているという状況での、きみもわたしも同じ機械だったんだ、という奇妙な連帯感。

 

 

・ひとところ模様のゆがみ見やるとき絨毯もまた遺伝子の船

 

ミクロな視点から一気に宇宙的な規模の話に飛躍する、ダイナミックさ。普段は意識していないけれど、絨毯に使われる羊などの毛一本一本にはもちろんDNAが含まれている。「船」という単語から、何となくノアの方舟も連想される。

 

 

・消防車救急車鳴きかわす夜の広さよ ひとつ氷を食めば

 

誰にも真似できないような歌だと思う。消防車や救急車が走り回っているのは自分の家の外の出来事であり、自分とはある意味関係の薄い、外部の世界の話だと主体は捉えている。そこに氷を食べることで、更にもう一段階遠い位相へと主体は移動するのである。その遠さのイメージは、氷を食べることによる体温の低下や氷の固さによってもたらされる。

 

 

・水に身をふかくさしこむよろこびのふとにんげんに似ているわたし

 

水に体を浸したときの身体感覚のあまりの素直さに、自分の中にこんなにも人間的、動物的な感覚が眠っていたのかと驚く。あまりの驚きに、本来は(もちろん)人間であるはずの主体が、思わず人間に似ていると感じてしまうという逆転が生じている。感じたことが論理や理性によって言語化される前の、「未言語化言語」とでもいうべきものを忠実にすくい取っている。

 

 

 「未言語化言語」にはきっと相当する専門的な用語があると思うので、また勉強しておきます。一番好きな歌は、<ふゆぞらふかく咬みあう枝のあらわにもぼくらはうつくしきコンポジション>でした。敢えて語るのは避けようと思いますが、音への配慮、宇宙的視座、両性具有的な美意識等の佐藤弓生ワールドの本質を備えた秀歌だと思います。

 

 

眼鏡屋は夕ぐれのため―佐藤弓生歌集 (21世紀歌人シリーズ)
 

瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』

みずうみに出口入口、心臓はみえない目だからありがとう未来/瀬戸夏子

 

 

中学生の時、英語の授業で、好きな色を紙に英語で書いて、自分と好きな色が同じ人を探してペアになるというゲームがあった。僕は普通にwhiteと書いたのだけれど、whiteの人が全然見つからなくて、最後まで残ってしまった。結局40人いたクラスで好きな色が白だったのは、僕だけだった。普段同じテレビ番組の話をしたり、同じ先生の悪口を言い合ったりしていたはずなのに、あれ、何かおかしいなと思った。自己と他者との間の果てしない隔たりをはっきり意識したのは、ひょっとしたらこの時が初めてだったかもしれない。

 

という記憶を、瀬戸夏子さんの『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を読んで、なぜだかふと思い出した。瀬戸さんの短歌を論じるのはとても難しいと思う。丁寧な読みはもちろん、短歌に関する一定以上の前提知識も求められる。

 

 

「瀬戸夏子の作品からは、手ブレの映像のような印象を受ける。リフレインが多いせいだろうか。一首の中で、少しずつ意味や見え方を変えながら繰り返される単語が、残像を思わせる。」(服部真里子、『そのなかに心臓をつくって住みなさい』栞文、p.3)

「コラージュ、という言葉が一番近いような気がする。ひとりで作る「優美な屍骸」のようなものだ。」(平岡直子、同上、p.6)

 

また、この歌集に収録されている<心底はやく死んでほしい いいなあ 胸がすごく綿菓子みたいで>という瀬戸さんの歌に関して、

 

「瀬戸さんの歌は、(中略)「心が複数ある」、あるいは、「心がない」ようにおもいます。」(三上春海、『誰にもわからない短歌入門』、p.20)

「矛盾する散文的感情どうしの「混声」と言うよりも、ひとつの韻文的な、論理や理性に回収される以前の、まだ名前を持たない叫びのようなものとしてこの一首はあるのだと思う。」(鈴木ちはね、同上、p.21)

 

 

これらの鋭い批評を読んでいくと、少しずつ瀬戸さんの作品世界が分かってくる。他者への意思伝達手段としての言語に変換される前の「言語」で、瀬戸さんの短歌は書かれているのだろう。コラージュ、多声的といったキーワードも、そういった作歌姿勢の産物だと考えると、理にかなうような気がする。

 

冒頭の話に戻ると、我々は日常生活では論理や理性の力を借りることで何とか他者と帳尻を合わせられてはいるが、本当は自己と他者の間には決定的な隔たりがある、ということをよく心に留めておかなければならないのだと思う。その事実を真正面から突きつけてくるこの歌集に、目の覚める思いがした。

 

以下、今まで他の媒体(アンソロジー等)で見たことがなかったものの中から、好きな歌を。

 

・きみが呼ぶどんな名前もすいかで仔犬で、ここは南極?、すごい匂いで

・アヒルから友人のほうへたくさんのわたしのミューズは苦しんで死ぬ

・海をまるごと吸いこむピアノ 食卓に並ぶ 海をまるごと吸いこむピアノ

・いうときにもとにもどしたひまわりが火のなかをわたり死のさくらん

・太陽を奪う太陽 % テントウムシ畑になってしまった貴方は

 

 

そのなかに心臓をつくって住みなさい

そのなかに心臓をつくって住みなさい

 

『短歌人』2018年4月号の、好きな歌10首(会員欄)

病院の待合おほかた診察を終へてわれのみわが犬待てり(伊地知順一)

 

今朝の雨ほそく光りて花に降る君も私を通り過ぎたり(高良俊礼)

 

にんげんがいない よ みちにめがね屋のナイロン製のはたのはためき(鈴木杏龍)

 

熱湯がシンクを鳴らし焼いてないのに焼きそばは完成される(鈴掛真)

 

枕のために布団を敷くのが面倒でリアクションだけでお届けしてます(加藤真弓)

 

幸せがうまくなってるホワイト退社からのさわやかコナミをきめて(山本まとも)

 

そのむかし川上弘美を貸してくれた先輩が窮地に立たされている(鑓水青子)

 

別れてもやさしいひとといる海辺黙れば波の音も消えそうで(空山徹平)

 

薄紙は雛人形を包みあり剥がすことなく過ぐる幾年(富樫由美子)

 

水を得た魚なるかな大量のチラシの海を子は泳ぎ出す(桃生苑子

 

 

※掲載ページ順です。万一誤字・脱字等ありましたら、すみません。

水について

 先日、短歌関係の友人と話していて、「短歌によく登場させる言葉とかモチーフって何?」という話になった。僕が普段から短歌を作ることに対して、あまり能動的じゃない(紙やPCに向かって、さあ今から短歌を作るぞ、ということはほとんどない。残念ながら、そのやり方では作れない)ことと関係があるかはわからないけれど、今までそういうことは全然考えたことがなかった。

 これまでに作った短歌をざっと思い出してみたところ、「水」という単語がふと思い浮かんだ。帰宅して調べると、やはり、というか想像していた以上に「水」という単語の入った短歌が多くて、驚いた。

 

 もうすぐであなたにだってなれたのに 傘袋では水が私語する

 カテドラルのようなかなしみ(埋まらない)水は水だとしても、まだ水

 優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊

 

といった感じの歌だ。ちなみに、一種の自己模倣なのか、「水」が含まれる歌にはなぜか読点の入った歌が目立った。

 さて、どうして水の歌が多いのか。他の人の短歌を読んでいても「光」とか「風」といった自然に関係する語は多く登場するし、水が多いのも大体そういう傾向の現れだろう、と考えると容易に納得することはできる。けれど、それだけではない、水にこだわる自分なりの理由があるような気がするのだ。僕は、人間でも動物でも植物でも、命あるものに直に触れているとき、不思議といつも距離を感じる。近接していればしているほど、はるか遠くにあるもののように思えてしまう。それでも、大地に川が走り、空気中を水が巡り、僕の中に、そして、「あなた」の中に水が流れる、という事実は、僕が何か大きなものの一つのピースとして安住していても大丈夫だよ、という感覚をふつふつと与えてくれているように思う。

 何だか壮大な話になってしまったけれど、要は自分の短歌にどういう言葉が多く使われているかを振り返ってみると、色々と考えるきっかけになるのでオススメですよ、という話でした。

 

(※『短歌人』2017年9月号の三角點に掲載された文章を、一部修正しています。)

 

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という文章を以前書いたのだけれど、これを書いた頃(2017年6月末)は、ふわふわした気持ちで短歌をやっていたな、と今からしたら思う。今年の年明け以降、短歌の周りで色々なことがあって、とりあえず短歌を精一杯やってみよう、と思うようになった。精一杯やってみようと思って初めて、短歌が頑張れば頑張るほど結果が出るジャンルではないことの恐ろしさを知ることになった。自分の中では、何というか、人生や生活を丁寧に進めていくこと(それが良い短歌を詠むコツだ、みたいなことを誰かの文章で読んだ気がするけれど、どの文章だったか思い出せない)と、歌集を読んだり他の分野の芸術に触れたりすることの二つが上手く噛み合っている時に、自分でも納得できるような短歌ができやすい気がしている。なので、バランスを大事にしつつ、今年は色々挑戦していけたら、と思っている。